目上や先輩に対する態度に関しては、野中広務が興味深い見方をしている。野中は1992年の竹下派(経世会)分裂時に小沢と激しく対立する一方、98年の自自連立政権で再び手を組むことになる因縁の深い人物だ。1985年ごろの話である。
「(竹下派の)七奉行は、テレビが映している正面に座るわけです。ところが、七奉行の1人である小沢一郎さんはおらないんですよ。小沢さん、どこにおるのかな、と思ったら、秘書が座っている柱の陰に座っておるわけ。いや、小沢一郎というのはえらいやつだ(中略)。年が若いけれど、そういうことを心得た政治家がおるな、という感じを受けたことをいまも忘れません」(『聞き書 野中広務回顧録』御厨貴・牧原出編、岩波現代文庫)。
科学技術政務次官
1975年12月、三木内閣の科学技術政務次官に就任する。当選2回の33歳であるが、抜擢ではない。政務次官は当選2、3回生であれば手にすることができるポストだった。小泉進次郎が内閣府兼復興政務官に就いたのは当選2回、32歳。小沢の初期のキャリアは進次郎と共通している部分がある。
政務次官時代の小沢には大仕事が待っていた。難航していた原子力船「むつ」の母港探しである。小沢は長崎県佐世保市入りし、対話を重ねた。在職期間はわずか10カ月だったが、同市が修理港となる道筋をつけた。一定の成果を出したのだ。小沢は後に党政務調査会の科学技術部会長も経験しており、科学技術は得意分野だった。
76年9月に政務次官を退任すると、自民党には猛烈な逆風が吹いていた。そんな中で行われた76年12月の衆院選、いわゆる「ロッキード選挙」で小沢は生き残る。この選挙では、当選同期で終生の友にも敵にもなる梶山が落選している。この選挙に勝った小沢は、ライバルだらけの当選同期の中でやや優位に立ち始める。
同年12月、福田赳夫内閣で建設政務次官に就いた。当選3回、2度目の政務次官である。田中派の影響力が強い建設省にあえて送り込まれたであろうことは想像に難くない。派閥内で「使える建設族若手」として存在感を放ち始めた時期である。
ちょうどこのころから、建設相だった父・佐重喜の薫陶を受けた若手官僚が幹部クラスになっており、小沢は官界との関係を深めていく。東京府立五中時代を含む小石川高校出身のキャリア官僚の会合にも名を連ねるようになった。先輩議員にくっついてばかりの小沢だったが、霞が関人脈の構築は怠らなかったわけだ。後年、野党生活が長期化しても、政府内の事情に精通していたのは官僚人脈が大きい。2世議員としての遺産をこういう場面で活用しているのは抜け目がない。