さらに、スレイマン1世の目はインド洋にも向けられました。というのも、ヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達して以来、ポルトガルの勢力がインド洋、さらには東南アジアへと伸びていました。それを阻止しようとしたのです。
1538年、スレイマン1世の艦隊はスエズ地峡から出航し、紅海を南下し、インド洋に出て、インド西部のムスリム勢力の中心地・グジャラートに向かいました。この地でのポルトガルの圧迫を排除するためでした。しかし、オスマン艦隊は勝利を得ることはできませんでした。スレイマン1世は、以前のようにインド洋におけるムスリムの通商を復活させようとしたのですが、その夢をかなえることができず、インド洋は徐々にヨーロッパ人の海へと変貌していくようになります。これはスレイマン1世にとって大きな躓きになりました。
地中海を掌中に収めたスレイマン1世
ただアジアとは対照的に、地中海ではオスマン帝国の勢力は伸張しました。1538年には、プレヴェザの海戦で、ハプスブルク帝国・ローマ教皇・ヴェネツィア共和国などの連合海軍を破り、地中海は「スレイマンの海」と化しました。
イタリア諸国などは、喜望峰ルートで香辛料が輸入できるようになっていたとはいえ、その航海にはまだまだ危険が伴っていたので、紅海からアレクサンドリアを経てイタリアに輸入される香辛料も多かったのです。つまりイタリアが香辛料を手にするためには、オスマン帝国と友好的に付き合い、輸入する必要があったのです。これはオスマン帝国に莫大な利益をもたらしました。
統治機構の整備にも注力
スレイマン1世は領土拡大にだけ秀でた君主ではありませんでした。国内の統治にも有能さを示します。彼はオスマン帝国の統一的支配機構の整備に尽力し、「立法者(カヌーニー)」と呼ばれました。またトルコ系騎士には、一定の土地の徴税権(知行地)を与え、戦争の際には県ないし州単位で指揮官の下に付くよう義務付けました。このような制度を次々と整備し、高度な統治機構を築き上げていったのでした。
スレイマン1世の時代は、ヨーロッパで宗教改革が巻き起こった時代でもありました。キリスト教国の君主にとって、東方からやってくるムスリム帝国に対抗するためには、ルター派やカルヴァン派の諸侯との協力関係を結ぶ必要もあり、それが宗教改革の流れがより強固なものになっていく大きな要因にもなりました。スレイマン1世は、ヨーロッパが宗教改革による政治的混乱に陥っている機を突いて大きな成果を挙げたとも言えますが、逆に言えば、スレイマン1世の侵攻があったから宗教改革が進んだと考えることも可能なのです。
さらにスレイマン1世が地中海の制海権を握り、アジアからの香辛料貿易の大部分を支配するようになると、ヨーロッパ諸国は次第に喜望峰回りのアジア航路に目を向けるようになります。つまりは、オスマン帝国の地中海覇権が強すぎたため、ヨーロッパ諸国は必要に迫られ、航海術と海運業を発達させたと言えるのです。
インド洋の制海権を失い、海運業でもヨーロッパに遅れをとるようになったオスマン帝国は、次第にヨーロッパ諸国と比べて力を失ってしまいます。ヨーロッパはスレイマン1世の脅威に怯えました。しかし、それに対抗するためにヨーロッパは強くなりました。地中海を見れば、スレイマン1世がヨーロッパに勝利したように見えるかもしれません。しかしインド洋を見れば、オスマン帝国はヨーロッパの勢力に敗北したのです。ヨーロッパを強くしたのは、スレイマン1世だったのかもしれません。