ウィーン包囲
次にスレイマン1世はハンガリーに目を向けます。この当時、神聖ローマ皇帝カール5世の目はイタリアに向いており、ハンガリーを財政的に援助しようとはしませんでした。そのためハンガリーを攻略することは、スレイマン1世にとって難しいことではなかったのです。
こうしてスレイマン1世は、ついにはハプスブルク家の牙城・ウィーンに狙いを定めます。
1529年9月、スレイマン1世の率いる12万の大軍が、ウィーンを包囲しました。この時、カール5世はウィーンにいませんでした。彼は弟のフェルディナント1世にウィーンの統治を任せていたのです。ウィーンの防衛隊は、オスマン軍に比べて脆弱でしたから、ウィーンは陥落寸前になります。もしこの都市がムスリムの手に落ちれば、ヨーロッパの国が次々とイスラム化する可能性もある。しかもスレイマン1世が率いたのは、イェニチェリという君主直属の精鋭部隊です。ところがウィーンの軍人たちも粘り強く戦いました。そのせいもあってスレイマン1世がウィーン攻略に手間取る中、厳しい冬が訪れました。これを見てスレイマン1世は、ウィーンの包囲を解き、帰国するという選択をしました。ヨーロッパ人は命拾いをしましたが、それでもウィーンが陥落直前にまで追い詰められたことは、ヨーロッパの人々に大きなショックを与えたのでした。
インド洋の覇権握れず
スレイマン1世の遠征は東方にも向かいました。当時、オスマン帝国は、イラン北西部のアゼルヴァイジャンに16世紀初頭に興ったサファヴィー朝との敵対関係を強めていました。サファヴィー朝は、多数派のスンナ派を支持するオスマン帝国とは異なり、シーア派の十二イマーム派の王朝です。
スレイマン1世は、1534年にサファヴィー朝を攻撃します。一時はサファヴィー朝の首都タブリーズを占領するものの、決定的な勝利を収めることはできませんでした。それでも彼は、バグダードを獲得し、東アナトリアの支配も確立することができました。