勢いに乗りたいオスマン帝国でしたが、1402年、中央アジアから押し寄せた同じムスリム帝国であるティムール帝国にアンカラの戦いで敗北、オスマン帝国下にあった君侯国が相次いで独立するようになりました。こうして滅亡の危機に追い込まれたオスマン帝国でしたが、徐々に勢力を回復します。

 1453年にはビザンツ帝国を滅亡させ、その首都コンスタンティノープルをイスタンブルと改名し、オスマン帝国の首都とします。さらに1517年にエジプトのマムルーク朝を倒すと、オスマン帝国のスルタンは、イスラム世界の宗教上の最高指導者であるカリフの地位を兼ねるようになります。こうして、オスマン帝国の君主は政治的にも宗教的にもイスラム世界で最高の地位を占めるようになったのでした。

【図1】 オスマン帝国の拡大(Wikipediaより)
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帝国の最盛期を作り上げたスレイマン1世

 オスマン帝国の領土拡大については、図1に書かれています。この領土拡大を体現したのが、スレイマン1世(在位:1520〜1566)です。

 父・セリム1世の死を受け、26歳で第10代スルタンとなった翌年の1521年、スレイマン1世は、ベオグラードを攻略しました。「征服者」と呼ばれた第7代スルタンのメフメト2世も攻略に失敗したベオグラードでしたが、スレイマン1世は黒海を通じてドナウ川へと約50隻の船舶を送って攻撃させると、難なくこの都市を落としてしまうのでした。

 次いでスレイマン1世は、東地中海交易の要所であるロドス島を陥落させようとしました。ロドス島は、聖ヨハネ騎士団が支配する島でしたが、過去にもオスマン帝国が陥落を試みるも、失敗に終わった場所でした。

 1522年、そのロドス島に向けてスレイマン1世は400隻からなる大艦隊を派遣します。聖ヨハネ騎士団が築いた強固な要塞に苦戦しますが、スレイマン1世は攻略をなんとか成功させ、ロドス島をオスマン帝国領としました。

 これにより東地中海の制海権は、オスマン帝国が握るようになりました。そうなると今度は、やはり地中海に覇を唱えようとするヴェネツィアやジェノヴァなどとの対立も激化するようになりました。