アジアからヨーロッパに攻撃を仕掛け、ヨーロッパ人を震撼させた国は、歴史上二つあります。モンゴル帝国とオスマン帝国です。とくにオスマン帝国は、ウィーンを包囲し、もう少しでウィーンが陥落するまでに至りました。もしウィーンが陥落していたなら、世界史は大きく変わっていたでしょうし、もちろん後世のヨーロッパの覇権もなかったでしょう。そこで今回はオスマン帝国、とくに最盛期の君主・スレイマン1世の時代を取り上げたいと思います。
オスマン帝国のことをかつては「オスマントルコ」と呼ぶこともありましたが、現在はその呼称は用いられなくなりました。それは、オスマン帝国の君主であるオスマン家はトルコ系の家系でしたが、帝国は多民族、多宗教の国家であり、決して「トルコ人の帝国」といいうわけではありませんでした。そのためオスマントルコの呼称は相応しくないと考えられるようになったのです。また、「トルコ人」と思われていた人々のなかには、非トルコ系の人々も多かったからです。
さて、小アジア(アナトリア半島)に興ったオスマン帝国は、ボスポラス海峡を挟んだヨーロッパ側のバルカン半島にも領土を広げた大帝国でした。そのため支配地域にはさまざまな民族が暮らす多民族国家でした。また帝国が拡大する中で、移動も可能であったため、各地でさまざまな民族が入り組んで生活するようになります。
現在、バルカン半島に多様な民族が居住し、それが民族問題を引き起こしていますが、問題の源流はオスマン帝国の時代にあるとも言えるでしょう。
オスマン帝国誕生
もともと小アジアには、半牧半兵的な部族をもとにした小国がいくつもありました。その中で台頭してきたオスマン家が、ムスリムの王国としての形を整えたのは1299年のことでした。以降、オスマン帝国は精力的に領土を広げていきました。14世紀中頃にはバルカン半島に進出し、1389年にはコソヴォの戦いで、さらに1396年にはニコポリスの戦いで、キリスト教国の連合軍を撃破します。
ニコポリスの戦いで勝利したことにより、オスマン帝国の君主にはイスラム世界の世俗権力の長であるスルタンの称号が与えられます。