(文:吉村 博光)
パソコンから顔をあげて、遠くをみつめてみる。そこにある景色は、2年後にはもうない。新しい社屋に移転するからだ。その頃は、働き方や価値観も変わっているのだろうか。でも・・・。その時、私の脳裏をシモーヌ・ヴェイユの言葉がよぎった。
「未来は、現在と同じ材料でできている」。だとしたら私は、「移転」というイベントを頼りにするのではなく、今この瞬間の小さな変化こそ大切にすべきなのかもしれない。未来は突然あらわれるのではなく、現在の延長線上にあるのだから。
その日の分を売ったら閉店する
さて、本書『売上を減らそう。』は、1日100食限定の飲食店を営んでいる経営者が思いの丈を綴った本だ。その日の分を売ったら閉店する、というモデル。そこから私は、大学で教科書として読んだ或る本のことを思い出した。
その本とは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』である。私にとって、教科書はいつも冒頭部分の記憶が強い。飽き性なのである。この本には“当時のドイツ人はその日必要な分を稼いだら働くのをやめてしまう”という主旨のことが書かれていた。
その記憶と『売上を減らそう。』がつながったのだ。もともとドイツ人には「見えない未来」のために働く倫理観が薄かったようだ。今でこそ、日本人は富の蓄積のために長時間働いているが、果たして日本古来の未来観とはどのようなものだったのだろうか。
当時、私はその答えを探した。飽き性の私にとって、富の蓄積のために働くという発想が面倒くさかったのである。できれば、馬のように草を食んで生きていたい。でも、どの時期をもって「日本古来」とすればよいのかさえ、私にはわからなかった。
それは、自分探しの旅に出た若者が、決して答えにたどり着くことがないのと近いのかもしれない。その答えは、風に吹かれている。いや、すべては変わり続けているということなのだろうか。自分の若いころを振り返りながら、私は本書を楽しく読んだ。
究極のホワイト経営を続けている
読んでいる間中、私は「なんだか著者は自分とどこか似ているナ」とボンヤリ感じていた。もしかしたら、その共通点がわかれば日本古来の未来観がみえるかもしれない。いや、二人だけだろ。とボケ突っ込みしていると、ようやく「おわりに」でこんな言葉に出会った。