率先垂範を表す言葉としては、山本五十六の「やって見せて、言って聞かせて、やらせて見て、ほめてやらねば、人は動かず」もよく引用される。しかし、「やってみせ、やらせて見せ、ほめたのに、部下が動いてくれない」という嘆きの声を発する上司は多い。「率先垂範」しているのに、なぜ? と不思議がる。

1941年頃の山本五十六(Wikipediaより)

 こうした場合、「能力自慢」をしていないだろうか。「俺はこんなこともできるんだぞ。すごいだろう」と。部下と能力で張り合い、「お前はまだまだだな」と見下す心構えをしていないだろうか。

 もしそうした素振りが少しでも見えると、部下は「はいはい、すごいですね、私はとても及びもつきません、ご立派、ご立派」と、よいしょすることにし、上司のご機嫌を損ねないようにするため、上司が見せた見本より上手にならないように気をつける。なぜなら、上司が能力自慢するということは、部下がそれ以上の能力を見せた場合、嫉妬し、意地悪する恐れがあるからだ。防衛本能として、能力を発揮しない、つまり自分の頭で考えて行動するような自発的な行動は避け、上司の命じるがままに動くロボットになりきろうとする。首にならずに済む程度に手を抜きながら。

「率先垂範」は上司の「能力自慢」ではない

 こうした上司は、「率先垂範」を、「技術的模範を示す」という意味に取り違えているのかもしれない。そのため、「率先垂範」を、自分の能力の高さを部下に自慢するための口実として利用してしまっているのかもしれない。「だって、上手な見本を率先して部下に見せろ、っていう意味だろ?」と勘違いして。

 だが、部下に能力自慢することは、あまり意味がない。上述したように、むしろ、部下が警戒して、能力を発揮しなくなる。上司の能力より低めにしか能力を発揮しなくなる。上司のゴルフより下手を演じて、機嫌を損ねないようにするのと同じように。

 そもそも、上司は部下より優れている必要はない。人間は、ライオンに火の輪をくぐらせることができるけれど、ライオンの強力なツメもキバもない。また、上手に火の輪をくぐる見本をライオンに見せる必要もない。人間は、鵜匠(うしょう)のように、鵜に鮎を採らせることができる。けれど、水にもぐり鮎を口でくわえる手本を示す必要はない。人間は、ライオンにも鵜にも、それぞれの得意技において能力が劣っていても一向に構わない。上司は、部下よりも能力に秀でている必要はないのだ。

鵜匠は鵜に鮎を加えて手本を見せることはない

 おそらくは、呉起も司馬懿も、兵たちからほほえましく思われていたのではないだろうか。将軍は、普段から鍛えている兵よりは、どうしても非力だ。だから、一緒のことをしようとすると、腰が入らず、ふらついたり、すぐに息が上がったりする。もしかしたら、兵たちも「あんまり気張ったら続きませんよ」と笑っていたかもしれない。

 しかし、一見、情けない姿を見せているようでも、部下たちは心を引き締め、見習おうとしただろう。「こんなに非力でも、進んで、むしろ喜んで取り組んでいる。体力も気力も上の俺たちが、この人に負けてどうする」と、やる気を出したのではないか。

 兵たちが担ぐ荷物は、呉起が背負ったものより重いものかもしれない。兵たちが穴を掘るスピードや運ぶ土の重さは、司馬懿がとてもマネできるものではないかもしれない。そして恐らく、呉起も司馬懿も、「おお、さすがだなあ!」と、その能力の高さに賛嘆しただろう。すると部下たちは、さらにやる気を出して、将軍の倍以上やってやる! と意気込んだのではないか。