「正しいであろう」仮説

 このエピソードは、研究者としては、非常に興味深いものだ。テレビでDNAとやらが、らせん階段のようにクルクル巻いたヒモのように描かれている映像をご覧になった方も多いと思う。実はあのらせん階段の構造、「誰もはっきり見たことがない」のをご存知だろうか。

 ロザリンド・フランクリンという女性が、DNAの結晶にX線を当てて、「らせん」っぽい映像は撮影していたけれど、それだけでらせんだと断定するのは「一斑全豹」だった。しかし、ワトソンとクリックという研究者は、DNAに関する断片的な情報をたくさんあつめて、「DNAがらせん構造だと考えると、すべての証拠につじつまが合う!」ことに気が付き、それを発表した。

 その後、DNAの研究が進んで、さまざまな「断片的な情報」が積み重なっても、「らせん」であることを否定するような情報が出なかった。このことから、いまやバイオの研究者で、DNAがらせん構造であることを疑う人はいない。しかし、DNAがらせん構造であることを、テレビのコンピューターグラフィックのような姿で見た人は、相変わらず一人もいない。いまだに「らせん構造だと考えると、すべての情報のつじつまが合う」だけなのだ。

 科学の営みは、実は「群盲象を撫でる」そのものだ。たとえばガリレオが、ピサの斜塔で大きさや重さの違う金属の玉を落とす実験をして、「大きさや重さが違っていても、同じ速度で落下する」ことを証明した、有名な実験がある。

 けれど、この実験も、意地悪な見方で言えば「一斑全豹」だ。「その日はたまたま、同じ速度で落ちただけだ! 明日は違うかもしれない! あさってはもっと違うかもしれないじゃないか!」と言い張ることができるし、「そもそも、その実験では金属の玉しか使っていないじゃないか。レンガとかプラスチックとか、この世の万物を試してみなくちゃ、断定してはいけないだろう」と、イケズなことも主張することはできる。

 でも、現在の科学ではそうした考え方はとらない。「否定する事実が見つかれば、潔く理論を見直すけれど、そうでない限りは『暫定的に正しいとみなそう』」という、性善説的な立場に立っている。

 ガリレオは、金属の玉という限られた材質のものでしか実験していないけれど、「もしかしたらガリレオの言うように、大きさや重さが違っても、落ちる速度が一定なのでは?」という説得力を持っていたし、その後、真空を作れるようになると、紙や羽毛のような軽いものでも、空気抵抗がないと金属の玉と同じ速度で落下することが確かめられた。

 これまでのところ、ガリレオの「仮説」を否定する事実は見つかっていないため、「正しいであろう」理論として認められている。

 ガリレオの理論を否定するのは簡単だ。真空にしようが何しようが、違うスピードで落ちる現象をひとつ見つければいい。そうすれば、理論を根本的に見直すことができる。けれど、いまのところ、そうした事実は見つかっていない。「空気抵抗がないなら、全部同じ速度で落ちる」という情報ばかりなので、それは「かなり正しい」と認められている。