でも、どうもそう単純な話ではなさそうだ。紂王は若い頃、とても賢い王様だと評判がよかったらしく、箕子以外は誰も心配していなかったという。箕子だけが「この王様、大丈夫かいな」と心配したらしいから、その目は非凡、慧眼といってよいものだろう。

 たぶん、箕子の予見は当てずっぽうではなかったはずだ。しかし、私たち凡人がやると、「一斑全豹」と同じになってしまいかねない。「一斑全豹」と「箕子の憂い」の違いをきちんと言語化し、なんとか後者の判断ができるようになりたいものだ。

 そうした思いでことわざ事典をさらに繰っていくと、「群盲象を撫でる」という言葉にぶち当たった。

 これは昔、王様が象を何人かの目の見えない人に触らせたところ、しっぽを握った人は「これはヒモだよ」、足を触った人は「いや、柱だよ」、耳をつかんだ人は「何を言ってるんだ、これは箕(みの)だよ」、上に乗った人は「丘ですけど?」、鼻を抱えた人は「ふっとい棒!」と、めいめいに違うことを言って、侃侃諤々(かんかんがくがく)、喧々囂々(けんけんごうごう)。私たちは、この目の見えない人たちと同じように、ごく一部の事実しか知りえず、全体を把握することはできないのだよ、というお話。

・・・で終わっていたら、「一斑全豹」と意味が違わない話になってしまう。実はこのエピソードには続きがある。

 みなさん、自分がじかに触っているから確信を持っており、他の意見をまともに聞く気がなく、罵倒、論破しようとしていたら、誰かが不意に「おい、俺たち、同じものを触っているんだよな?」と問いかけ。みんな、ハッとして、そういえば、と冷静になった。

 その上でみんな、自分の触っているものを正確に把握し、報告しあうことに。「ヒモと思われるやつ、先に毛がある」「柱は直径30cm弱かな」「この壁、微妙にカーブしているな」「この太い棒、ときどき動く・・・」「俺、上に乗っているんだけど、なんか山の稜線みたいな感じが」。

 他人の意見を否定するのではなく、それぞれが自分の見ているものをよく観察し、その情報を共有するようにしたところ、「あ! これ、もしかして、ウワサに聞くゾウってヤツじゃ?!」。その「仮説」に基づいて、改めてめいめいに部分部分をよく観察したところ、ゾウの体の一部と考えたら、それぞれのもたらす情報が全部つじつまの合うものになる。「そうだ! 俺たちの触っているのは、ゾウだ!」と、手探りながら、ゾウであると見抜いた、というお話だ。