仮説をぶつけ合い紡ぎ直す

 この営み、「群盲象を撫でる」とそっくりだと思わないだろうか。小さな事実を積み重ね、その情報を統合して、もっとも矛盾がない理屈を「理論」として確立していく。これは科学の営みそのものだ。

 たとえば、科学のコーナーに行くと、恐竜の本がたくさんある。子供向けにもいっぱい。誰も恐竜を見たことがないのに。なんでそんなイイカゲンなことができるのだろう? 人類が生きていない、何千万年前、何億年も前のことを、さも見てきたかのように語る科学。「一斑全豹」じゃないのか? と警戒してみても不思議ではない。

 実は、古生物学など、人類が生まれてもいない時代の研究をする場合、「一斑全豹」を行うのだ。たとえばサンゴの化石が見つかったら、「ここは昔々、温暖な海だった!」という、大胆な仮説を立てるのだ。その根拠は? 「だって、現代でもサンゴは暖かい海に生きているから」。

 アブナイと感じないだろうか? なんでサンゴは何億年も前でも暖かいところでしか生きられないと決めつけるのか? もしかしたら酷寒の地でも生きていけるしぶといヤツだったかもしれないじゃないか! 今のサンゴがぬくいところでしか生きられないたるんだヤツだからって、昔もそうだったと考えるのは、まさに「一斑全豹」じゃないか!

 ところが、これでよいのだ。その代わり、ありとあらゆる、小さな石ころでしかない化石から、一つひとつ、壮大な物語(仮説)を紡ぐのだ。「こんな化石が採れるということは、このあたり一帯は・・・」と物語を展開し、「一斑全豹」をしまくるのだ。

 その代わり、約束事がある。仮説と仮説をぶつかり合わせるのだ。相撲のぶつかり稽古のように。ガチンコで。そして、それぞれの化石が紡ぐ物語(仮説)を統合し、すべての証拠を矛盾なく説明できる新たな物語(仮説)を紡ぎ直す。そうして、化石のすべてを説明しうる「理論」を見出していく。

 そう。ここでも「群盲象を撫でる」と同じ工程が看(み)て取れる。大事なのは、「一斑全豹」と批判されかねなくても、大胆に物語(仮説)を唱えてみること。そしてもうひとつ、とても大切なこと。他の物語(仮説)に耳を傾け、互いに矛盾しないですむ、もっと大きな物語(仮説)を一緒に紡ぎ直すことだ。

 主張すること。聞く耳をもつこと。一見矛盾して聞こえるが、この2つは、とても大切なことだ。誰もが、自分の見ているものが何なのか口をつぐんでしまったとしたら、ゾウだと見破ることは決してできない。自分の触っているものこそ正しいと確信し、他の意見を愚劣だと決めつけて話を聞こうとしなければ、これもゾウだと見破ることはできない。主張すること。聞く耳をもつこと。この2つは、科学を行う上でとても重要な要件だ。