公害というと、「原因を発生させた企業」と「被害を受けた住民」など、加害者と被害者が対立する構造を思い浮かべやすい。しかし、公害の中にはこの対立の構図が必ずしも単純ないし明確ではないものもあるという。
前回の記事:「水俣病を止められなかった『企業城下町』の構造」
(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55263)
「代表的な例が道路公害です。道路公害においては、ときに一般市民が被害側と加害側の両方になるケースも少なくありません。だからこそ、誰もが『自分も加害者になり得る』と心に留めることは、環境への配慮が求められる現代において重要です」
こう指摘するのは、國學院大學法学部の廣瀬美佳(ひろせ・みか)教授。日本の公害史を取り上げてきた本連載の最終回では、道路公害を入口に、持続可能性が求められる未来へ向けて、私たちが取るべき姿勢を考える。
知らぬ間に、公害の「加害者」に加担している可能性も
――前回、水俣病を振り返った記事で、加害者と被害者が必ずしも明確な対立構造になるわけではなく、複合的に絡んだケースも多いと伺いました。住民が被害側と加害側の両方になる可能性もあるということですよね。
廣瀬美佳氏(以下、敬称略) はい。顕著な例が道路公害です。道路公害は、走行する車の排気ガスが原因となることが多数です。となると、住民は、排気ガスで汚染された空気を吸う「被害者」であると同時に、その道路を利用し車を運転することで、汚染に加担する「加害者」、あるいは「加害者に準じた立場」だとも言えます。“被害者と加害者の同一性”があるのです。
廃棄物の問題に関しても同様です。処理の際に問題となる廃棄物は、元をたどると私たち一般市民の家庭から出たゴミかもしれません。また、生産の過程で大量の産業廃棄物が生み出される製品があったとしたら、その製品を使うことで、一般市民が問題を助長することにもなります。
公害では、得てして被害者としての市民がクローズアップされがちですが、加害者にもなり得ますし、被害者と加害者の両方に関与している可能性さえあるのです。