日本の「公害」を紐解く上で、避けて通れないのが熊本県水俣市で起こった「水俣病」の集団発生である。1956(昭和31)年に公式発見されたこの公害は、今も「水俣病」であると認められることを望む患者が後を絶たないなど、60年以上経っても、本当の収束には至っていない。
前回の記事:「鉱害事件の事態収拾のために沈められた村」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54224)
「水俣病をめぐる問題が長期化した理由は、『加害者の振る舞い』が稚拙だったことに尽きます。つまり、加害者が行うべき『被害者の救済』と『発生源対策』について、きわめて対応が不十分でした。その背景には、当時の国策や地域の環境も影響していたといえます」
こう指摘するのは、國學院大學法学部の廣瀬美佳(ひろせ・みか)教授。世界的な公害事件として知られる水俣病の集団発生、その裏にはどんな原因があったのか。廣瀬氏の解説とともに、改めて振り返る。
公式発見の前から、被害を止める機会は何度もあった
――公害事件として多くの人が知る熊本県の水俣病ですが、改めて問題が起きた要因に迫りたいと思います。
廣瀬美佳氏(以下、敬称略) はい。水俣病は1956年に公式発見された病気で、体内に入った有機水銀により脳や神経が侵される有機水銀中毒です。事の発端は、チッソ(当時の日本窒素肥料、のちに新日本窒素肥料に社名変更)が熊本県水俣市に構えた水俣工場の工場排水に有機水銀の一種である「メチル水銀」が含まれており、これを摂取した地元の魚介類の体内に蓄積。その魚介類を食べた人々が、中毒症状を起こしていったのです。
公式発見は1956年ですが、被害はそのずっと前から水面下で起きていました。メチル水銀が含まれた排水は、アセトアルデヒドの製造を行う際に発生するもので、この製造を水俣工場で開始したのは1932(昭和7)年にまでさかのぼります。
これは後に分かることですが、最初の水俣病患者は、確認できる範囲でも1941(昭和16)年頃、すでにいたと考えられています。