1950年代に表面化し、その後、世界的にも知られる公害に発展した熊本県・水俣市の水俣病。被害が拡大した背景には、企業の稚拙な対応、そして歯止めをかけようとしない国の不作為があった。
前回の記事:「水俣病の被害拡大はなぜ止められなかったか」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54649)
「要因は、それだけではありません。水俣市が置かれた環境も、被害拡大に関係していたと考えられます。当時、水俣市は企業城下町のような状況であり、その中心企業こそが加害者のチッソでした。市民が企業責任を追及するのは簡単ではなかったでしょう。この点も、水俣病の事例から学ぶべき部分です」
そのように話すのは、國學院大學法学部の廣瀬美佳(ひろせ・みか)教授。水俣病の事例から学ぶべき「地域の環境」とは何なのか。前回に引き続き、経緯をたどりながら真意に迫る。
責任を認めないまま、終息を狙った「見舞金契約」とは
――前回、水俣病が発生しながらも、加害者であるチッソ(当時の日本窒素肥料、のちに新日本窒素肥料に社名変更)が発生源対策を行わない、むしろ発生源であることを認めない状況まで伺いました。そして、国も歯止めをかけられませんでしたね。