しかし、学校創立から6年後の明治10年、佐野鼎は当時の流行病であるコレラにかかり、発症からわずか2日で、突然、息を引き取ってしまいます。校主を失った学校は、たちまち経営難に陥り、廃校の危機にさらされますが、そこへ校長として着任したのが、アメリカ暮らしの経験がある若かりし頃の高橋是清(後の内閣総理大臣)でした。高橋を校長に迎えた共立学校は、「大学予備門」(東京大学への予備機関)への進学者のための寄宿制学校としての役割を担い、男子生徒を集めるようになったのです。

東京・神田淡路町にある「開成学園発祥の地」の石碑

 校名が「開成学園」に変更されたのは明治28年です。御茶ノ水の校舎はその後、関東大震災によって焼失してしまったため、学校は西日暮里へと移転しますが、佐野鼎が掲げた「建学の精神」は今も脈々と受け継がれて、現在に至っています。唯一、「男女共学」という創立時のモットーは、姿を消してしまいましたが・・・。

歴史に埋もれつつあった先祖の足跡を辿って

 実は、佐野鼎は、私の母方の傍系の先祖(鼎は分家筋)にあたります。

 出身は駿河の国富士郡水戸島(現在の静岡県富士市)ですが、佐野鼎は西洋砲術や洋学者としての高い知識と技術を買われ、日本一の大藩である加賀藩(現在の石川県)にスカウトされて、砲術師範として迎えられた経歴を持っています。

 私は、約5年の歳月をかけて、ほとんど知られていなかったこの人物の発掘調査をおこない、先日、『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著・講談社)という本を、伝記小説のスタイルで上梓しました。

 佐野鼎は、自身の志をこう述べています。

「自分はこれまで、地球上の多くの国々をこの目で見る機会に恵まれた。中でも欧米諸国の文明が群を抜いて優れているのは、学校を興し、人々に教養をつけさせた結果に外ならぬ。それだけに、日本において今必要なのは、欧米諸国と同様の教育をおいて他にはないと確信した」

 本書の口絵には、明治6年に撮影された共立学校の生徒と教師たちの集合写真が収録されています。そこには、おかっぱ頭のかわいい女の子たちがちょこんと座って、真剣にカメラのレンズを見据えている姿が映し出されています。「かつて開成学園は男女共学であった」その、何よりの証拠が、この1枚だといえるでしょう。

 幕末から明治期にかけての激動の時代、藩を超え、世界の海を渡り、49年という短い一生を駆け抜けた佐野鼎――。その足跡と人脈を辿る旅は、まさに教科書では習ったことのない、新たな歴史発掘の連続でした。この連載で、ご紹介していければと思っています。