ちなみに、姐さんや組長は、自らの家庭の主がヤクザであるから、子どもにヤクザ渡世を継いでもらいたいとは考えていない。よく、筆者に対して「この子には真っ当になってもらいたい。ちゃんとした学校に行って、いい会社に就職してもらいたい」と、しんみりと口にしていた。
そうした場合、筆者は最低限、次のように助言している。「まあ、今のうちに活字に慣れることですよ。そのためにも、毎晩、寝る時間には、お母さんが童話を呼んであげるといい。そして、子どもが字を読める年齢になったら、今度はお母さんに読んでねと、活字を通して言葉のキャッチボールをしなさい。ただし、これは毎日必ずやって下さいね。習慣というものは恐ろしいものです。これを継続すれば、きっといい結果が出てきますから」と。
残念ながら、筆者が推奨した幼児教育は履行されておらず、小さな暴れん坊将軍たちは、腕白に育っている。
中流階級のモノサシ
アメリカの社会学者が「中流階級のモノサシ」という概念を指摘した。これは、学校や職場の中で学生や従業員を評価する際に用いられるものである。もちろん、学力テストという評価手段とは別物であり、普段の行いを、このモノサシに照らして評価するということである。我が国では、それは「内申書」「勤務態度」などという形で、教員や上長によって行われる。ここで、一定以上プラスに評価されるためには、その評価者と同等、あるいはそれ以上の資本を有する家庭の薫陶を受けている必要がある。
社会的・文化的資本に恵まれなかった子どもが、一流の大学に進み、一流の企業に就職したという例を、筆者は知らない。資本が欠乏した家庭で育った子どもの最盛期は、中学時代ではないかと思う。ここまでは、腕っぷしが強い、抜け目がないなどの地アタマがあれば、ガキ大将として、なんとか人の上に立てる。しかし、彼らは、十代の半ばに、最初の社会の壁に直面する。それが高校受験である。教養も知識も持たず、先生の評価が高くない彼らには、この壁は超えることは至難である。受験とは、社会における篩であり、試験を経てホワイトカラー、ブルーカラーが選り分けられる。
結果、ヤクザの子どもたちは、否応なく「人生で成功するチャンスのない細い道」に追いやられることとなるのである。そうすると、彼らは資本の再組織化をはかり、道徳や順法精神という資本の基盤は軽視され、彼ら独自のルールで、以前とは異なった形で資本が再構築される。たとえば、中卒で解体や土工のテゴ(見習い)をしても大手企業の年収はとても得ることが出来ないが、薬物を売買するネットワークを構築すれば、若くして大手企業の給与に匹敵する稼ぎを可能とするのである。
社会で育てる
一昔前、昭和の時代は「お出かけは、ひと声掛けて鍵掛けて、向こう三軒両隣」などという牧歌的な地域社会が存在した。ここでは、親が共働きで子どもの世話が疎かになると、隣近所のオッチャンやオバちゃんが、親の役目をある程度肩代わりしていたものである。そうすると、家庭に不足する資本を、他の家庭から補うチャンスもあったわけであるが、現代社会でそれは望むべくもない。
地域社会が機能せず、隣人は何する人ぞという時代、家庭は閉鎖的社会となり、家庭の資本の質が、子どもの人生を左右する度合い、人生において様々な制約を生む「格差」のタマゴの存在が明らかとなっているように筆者には思えるのである。
暴力団排除だ、半グレが新たな脅威だと慌てふためき、場当たり的な対策を講じるのは根本的解決にはならない。青少年の厳罰化など論外である。格差対策こそ長い目で見た時に最も有効な対策ではないか。彼らは、筆者から見ると社会の被害者であるように見える。生きんがため、見下されないため、カネを得るためには、非合法なシノギをするしかない。それは、選択肢が限られたチャンスの無い細い道に追いやられた結果であるように思える。
このような時代だからこそ、子どもは社会全体で育てないといけない。ましてや少子高齢化時代、子どもは社会の宝である。しかし、現実はどうか。「格差」「貧困」というワードが、度々紙面に登場しているにもかかわらず、為政者が格差対策に本腰を入れて乗り出す気配はない。オリンピックの成功に、国家の威信が掛かっていることは、百も承知、二百も合点である。しかし、わが国の将来を考えるとき、門地を問わず全ての子どもたちの格差解消への努力、教育格差の解消への試みは、何にも増して有効な未来への投資となるのではなかろうか。