筆者は、2003年から今日まで、ヤクザについて犯罪社会学というツールを用いて研究を続けてきた。その中で、過去100人以上のヤクザ(元ヤクザ、親分や元親分)、姐さん(組長や若中の妻)などに話に耳を傾けてきた。そして、彼らの声を、書籍として紹介するという形で、世に出してきたわけである。
ページ上に活字で残されたヤクザたちの声というものは、よく書店で見掛ける「大組織を束ねる名が知れた大物」ではない。彼らの多くは、市井、すなわち、我々の生活空間で生き、子育てをしつつも、ヤクザとして何らかのシノギをして、細々と生きている人々である。2018年9月3日、AbemaTV(アベマTV)が企画したヤクザの日スペシャルで、「ヤクザの年収はどの程度か」と、スピードワゴンの井戸田潤氏から質問された。筆者が回答した年収額は、スタジオの出演者には衝撃的だったようである。
ヤクザのイメージは、良かれ悪しかれマスコミによって作られている。その中で取り上げられる彼らは、ビッグショットであり、金回りが良さそうに見えるかもしれない。しかし、我々一般人でも、給与はピンキリである。自営業者でも、蔵が立つような者も居れば、春の確定申告に備えて、領収書をかき集める者もいる。表の社会も裏の社会も人間の営みであり、得てして同じようなものである。しかし、彼らの生い立ちは、我々には想像もできないほど悲惨な例が多い。今回は、ヤクザになる以外に、生きる道がなかった人たちの人生行路につき、読者の皆様にお伝えしたい。
生まれながらに背負っているもの
人は誰しも生まれながらに背負っているものがある。それは両親から受け継ぐものが多い。
しかし、それは、子どもの時分には、さほど重たいものではないかもしれない。だから、平均的な家庭で育った人は、昼は学校に行き、放課後は友人と遊び、帰宅して風呂に入った後、家族と食事をしてテレビを観るというありふれた日常を経験している筈である。クリスマスには、枕元にプレゼントが置かれていた記憶もあるだろうし、正月には両親や祖父母からお年玉をもらって、好きなものを買いに行った思い出もあるのではないだろうか。これが、一般的な少年時代であろう。
では、ヤクザの人たちはどうであったか。
一言でいえば、規格外である。クリスマスも、盆も正月もなく、常に腹を空かせ、生きることに必死であった。総じて厳しすぎる少年時代を経験している。
筆者が取材した元ヤクザの中でも記憶に刻まれている人がいる。それは、彼らが経験した少年時代の過酷さゆえである。以下、どん底の代表格2名を紹介したい。
小学校4年生でゴミ箱を漁って飢えをしのぐ
一人は拙著『ヤクザの幹部やめて、うどん店はじめました』(新潮社)の主人公、中本氏である。彼は小学校の4年生の時に両親が失踪し、市場のゴミ箱を漁って飢えをしのいだという。近所の人が両親の失踪に気づいて、親戚筋を探し出して預かってもらったものの、そこでの生活は野坂昭如の作品『火垂るの墓』の清太と節子を彷彿とさせる。親戚の家に住んでいながら、トイレですら屋外でさせられている。寝室も当てがわれず、廊下で寝た。たらい回しにさせられた親戚の家で、モノが無くなったら本人が疑われた。あげくの果てには、親戚の叔母ちゃんの目が悪くなったら「お前のせいだ」とまで言われ、いわれのない非難を受けている。
当時「腕白でもいい、逞しく育ってほしい」という丸大ハムの宣伝が流れていたが、彼の場合は腕白などという上品なレベルではない。まさにサバイバルな少年時代であった。学校には行っていたのだから、本来であれば学校の先生が気付かないといけない訳だが(毎日、同じ服を着て登校しているから、彼の置かれている窮状に気づかないはずは無い)、中本氏は「何も言われなかった」と回想している。
最初に就職した先は床屋。ここでは坊主の駆け出しで、月の給料は3万円であったという。筆者と、中本氏は、少し年齢が違うが同じ世代を生きている。筆者が中卒で世に出た頃の時給は450円だったと記憶するから、朝から晩までこき使われて月給3万円は、修行中とはいえ、割に合わない。
そんな時、銭湯に行った時、溝下親分と出会い、彼の中でヤクザへの憧れが花開いていった。彼が理想とする男というロールモデルに出会ったからである。以降、彼はひたすら男道に生きようと研鑽努力を重ね、指定暴力団の専務理事にまで登り詰める。一体、ヤクザのサブカルチャー以外で、彼の能力を磨く場所があったであろうか。現在、繁盛うどん店を切り盛りする中本氏の人格を磨き上げたものは、決して清い水だけではない。水質の清濁を問わず、日夜磨かれ続けた結果の現在である。