では、家庭のもつ何が、ロープの長さや太さを変えるのかというと、それは家庭の文化が内包する「資本」である。資本というと、金銭、財物的な発想をしがちであるが、本稿で述べたいのは、社会的資本(正しい役割を学ぶ人とつながる機会)と、文化的資本(感性を育てる学びの機会)についてである。どちらも目で見えるものではない。しかし、これらは、人の人生を大きく左右し、人生において様々な制約を生む、何なら「格差」のタマゴともいえる生来的な要因なのである。
お金に代えられない2つの資本
非行少年やヤクザの家庭に生まれた人たちは、小さい頃から社会的資本や文化的資本が貧しい家庭で生育してきている。この社会的資本とは、親の人的なネットワークや信用であり、親自身はもとより、子どもの友人や付き合う人、所属するグループを方向付けることになる。カエルの子はカエルであり、付き合う友人もカエルになるということである。
次に、文化的資本であるが、これは、社会的資本以上に大切であると考える。簡単にいうと、家庭に活字の本があるかどうか、クラッシック音楽などのCDがあるか、子どもの頃から博物館や美術館、音楽会に連れて行ってもらったかどうかである。このような資本は、目に見えないが、子どもの感性を刺激し、後年になって教養として表出する。したがって、文化的資本を利用、消費することは、高等教育や高い文化水準との係わりを容易にするといえる。
夏目漱石や芥川龍之介という資本
この文化的資本に関してもう少し触れたい。筆者の例で恐縮であるが、家庭はとても貧しかった。だからテレビというものがない。仕方ないので、幼稚園児の頃から夏目漱石の『坊ちゃん』を、小学校低学年では芥川龍之介の『羅生門』などを読んでいた。むろん、意味はよく分からない。読めない漢字は親にルビを振ってもらっていた。音楽は聴いていないので音感が無い。絵画などもサッパリ分からないから、東京でデザイナーとして働いている時は、恥ずかしい思いをした。ただ、そうはいっても、現在、本を書いたり、雑誌記事を書いたりと、文章で僅かばかりの小銭を稼げるのは、子どもの頃に読んだ、漱石や芥川龍之介のお陰であろう。