さらに言うと、小学校から中学、高校とマトモに行っていない筆者が、27歳から大学に入ったのも、33歳で大学院に進学したのも、子ども時代に、家庭内文化によって植え付けられた価値観ゆえであろう。何も、大学に進学しなくとも、普通の生活はできるにもかかわらず、回り道をしたわけである。当時は、意識しなかったが、十代でグレてろくに勉強もしなかった筆者が、いわゆる「学び直し」出来たのは、家庭の文化的資本のお陰であり、それが如何に重要か、お分かり頂けると思う。

ママ、面会に来て

 筆者は『組長の妻、はじめます。:女ギャング亜弓姐さんの超ワル人生懺悔録』(新潮社)という本を2017年に執筆した。この時の取材対象は、現役ヤクザの姐さんであり、一児の母である。旦那さんの組長は、赤落ち(刑務所に入ること)して、不在であったから、姐さんの家庭は、姐さんママ友の集いの場と化していた。ちなみに、彼女たちの大半は大学(刑務所のこと)経験者である。

 大体、ヤクザは子ども好きである。彼女たちが集まると、少子化という現実がにわかに信じがたい。3LDKの部屋は、子どもの遊技場になり、泣いたり喚いたり、走り回ったりという修羅場と化す。夜も遅くまで寝ないで騒いでいるので、脳が発達するか心配になったものである。

 そのような子どもたちを見ていて思うことは、「モッタイナイ」である。筆者が観察する限り、幼児である彼らは無垢そのものであるが、既に、この段階でヤクザのサブカルチャーに染まり始めている。たとえば、子どもを同伴して、近所に買い物に行くと、柵があればその後ろに回り「ママ、面会に来て」と言う始末である。あるいは、「ヤクザの子や、弾いてまうぞ」という決めゼリフを口にする。姐さんたちは笑えるかもしれないが、普通の親ならドン引きしてしまうだろう。そして、おそらく我が子に耳打ちすると思う……「あの子と遊んじゃだめよ」と。

 一方、家庭の中を見渡して、童話集や、百科事典、文学小説などというものは存在しない。散乱しているものは、実話誌の類や、テレビ番組雑誌くらいであるから活字に親しむ機会は少ない。むろん、クラッシック音楽なぞ耳にする機会もなく、カラオケに行って、ママ友が熱唱するド演歌を耳にする程度である。これが、彼らの家庭が有する文化的資本の程度である。組長クラスですらこれであるから、組員のそれは容易に察することができる。

 子どもは、周囲にいる大人の行動や態度から日々学習する。周囲の大人が口にする何気ない言葉、行動、態度を、子どもはよく観察している。そして、それを愚直に内在化させてゆき、朱に染まるのである。この組長の妻、家庭に出入りする姐さんたちは、子どもに優しい。しかし、彼女たちの振る舞い、行動、会話からの学習が、我々の一般的な社会で「プラスに評価される」かというと、決してそうしたレベルにはない。それは残念ながら、その子らが生まれ落ちた家庭が有する資本の質であり、運命的に与えられた人生のスタート地点なのである。