木こりの重労働で20代前半を空費したのですが、復員後、時差なく復学した大学で、いくら勉強しても、戦地に出征しなかった年下の上級生たちに追いつかない。
その絶望と焦燥の中で、抑留時代に罹患した結核菌が背骨に入り、脊椎カリエス、つまり骨の虫歯となって30歳まで寝たきり、勉強などろくにできないまま社会復帰、40歳で結婚、46歳で亡くなりました。
父の最終学歴は「旧制東京府立高等学校卒業」です。今とはかなり違う状況ですが「高卒」。学徒出陣と長い療養生活で東京大学経済学部は中退。
30歳を過ぎて社会復帰して仕事を始めねばならず、学窓を去り、私をもうけてくれましたが、今回この記者会見を見て、父の選択をむしろ誇らしく思うようになりました。
私が12年前の「日経ビジネスオンライン」連載以来、一貫して経済コラムを記しながら、地味な手仕事でマクロやファイナンスの第2専攻を自分の研究室で続けてきたのは、すべて父の無念のあだ討ちという個人的な動機があります。
前回、また次回も私たちの「Fintech 協創圏」の話題を記しますが、伊達や酔狂で取り組んできたわけではない。
その背景には真摯に学問と向き合おうとしながら、戦争、抑留、疾病、そして健康を回復した後は生活するために働かねばならず、学成らなかった人の無念、いや莫大な怨念があるのを認識しています。
それに愧じることはできないという、学術のモラルがあるからにほかなりません。
父は昭和19年の4月に入学、同じ年の10月の学徒出陣で、第1年次を修了できなかった。これが「旧制高校卒」で終わった決定的な制度上の理由になりました。