しかし、私が尊敬する映画監督の篠田正浩さんをはじめ、若き日の印南教授に厳しい指導を受け、生涯にわたって厳密な知的検証への誠実な姿勢を貫いた文学人が多数いることは存じています。
そうした全体を冒涜する内容を、そうと意識してか、せずしてか、単位や卒業証書を詐取した現場である大学にやって来て、開き直って喋っている。
その背景には、一抹程度のやましさと、それをもみ消したい心理、さらには、何も学ばなかったという母校に、自分の「資料」を寄贈するという、夜郎自大の同居を感じます。
こんなことでは、いつまで経っても日本の大学の特に「文系知」は、世界のつま先にも手が届かない低空飛行にとどまり続けることでしょう。
「私の履歴書」が大学と日本をダメにする
日本経済新聞の「人気連載」の1つ、「私の履歴書」は、日本を相当ダメにしていると思います。
明確な理由を指摘することができます。すなわち、少なからざる記事に、学生時代、まともに勉強しなかったとか、ボート部でオールばかり握っていたとか、学業を軽視するような内容が、半ば自慢のごとく記されているように思われるからです。
こんな風潮は、かつての日本、例えば<金時計>が出ていた明治、大正初期の日本には絶対になかったと思います。
大学は学の府であり、厳密に学業に精励すべき場所だった。それが最初の変質を遂げたのは1920年の大正の高等学術改革あたりと思います。
この頃、早稲田も慶應義塾も含めた私立学校が大学として認可されました。つまり今から2年後の2020年は、大学教育自由化から100年という節目に当たる年ということになる。
私自身、大学時代には非常によく勉強した時期と仕事が回り始めてしまって勉強が後手になった時期、それを反省して、再度精励した時期、という3つの区分がハッキリあります。