織田信長の遺体はどこにいったのか?

 そこで問題となるのが、遺体の行方である。なぜ、本能寺の焼け跡から見つからなかったのだろうか。考えうるのは、誰かが本能寺の外に運んだか、もしくは遺体が完全に灰燼に帰したか、のいずれかしかない。

 実は、本能寺から信長の遺体が運ばれたという話も存在する。世に信長の墓とよばれるものは数多く存在しているが、その墓に信長の遺体もしくは遺灰が埋められていることが確実なものはない。秀吉が信長の公式的な墓所とした大徳寺の総見院でさえ、木像を焼いた灰を遺灰の代わりとしていたくらいである。そんな状況のなか、信長の遺体を埋葬したという寺伝をもつ寺院が二つ存在する。

 一つは、京都にある浄土宗の阿弥陀寺である。本能寺の変の直後、信長とかねてから親交のあった阿弥陀寺の清玉上人が、信長の遺骸を運び込み、埋葬したという。実際、境内には「織田信長信忠討死衆墓所」がある。文字通り、信長だけでなく、子の信忠や家臣の森蘭丸など、一連の戦いで討ち死にした人々が弔われている。当時、僧侶は俗世とは無縁の存在とみなされていたから、清玉上人が本能寺に入ることは認められたろう。

京都の阿弥陀寺境内「織田信長信忠討死衆墓所」(著者撮影)。

 ただし、実際に信長の遺体が埋葬されているのかどうかは、わからない。いくら世俗と無縁だからといっても、信長の遺体を運び出すことは、光秀に認められるはずもないからである。それに、もし遺体が確かに埋葬されていれば、豊臣秀吉がわざわざ信長の木像を焼いて遺灰代わりにする必要もなかったろう。信長ゆかりの人物の墓所にもなっていることからすると、本能寺や妙覚寺で見つかった遺骨を集め、信長・信忠父子をはじめとする「討死衆」として供養したものかもしれない。

 もう一つの寺院は、京都から遠く離れた駿河国(静岡県)にある日蓮宗の西山本門寺である。この西山本門寺の第18世日順上人の父が原宗安という武士で、この原宗安が関係しているのだとされる。本能寺の変の前夜、実は本能寺において日蓮宗の僧侶である日海上人が鹿塩利賢と囲碁の対局を行っていた。ちなみに、日海上人は、のちに本因坊算砂とよばれる囲碁の名手であり、原宗安は、この日海上人に従っていたものかもしれない。本能寺の変で信長が自害したのち、原宗安は日海上人に託され、信長の首を密かに本能寺から持ち出し、本門寺に埋葬したのだという。その場所には柊が植えられたとされ、その柊は静岡県の天然記念物に指定されるほど歴史を感じさせる。

密かに首を持ち出し埋葬したと言われる西山本門寺(筆者撮影)

 ただ、駿河国は徳川家康の領国である。京都から駿河国に行くまでには、信長の本国である尾張国(愛知県)を通るわけで、信長の嫡男信忠は自害していても、信長の一族や家臣に渡すこともできたろう。あえて、遠くの駿河国まで運んだ理由は定かではない。

 死を覚悟した信長が一番畏れていたのは、死ぬことではなく、死んだあとのことだったはずである。このとき、信長はまだ信忠の死を知らない。首が光秀の手に渡れば、信忠も危険になるという判断もあったろう。信忠が万が一討たれるようなことになっても、次男信雄や三男信孝も、危険にさらされてしまう。

 そうしたとき、信長が取りうる選択肢は二つしかない。

 信長であることがわからないほどに遺体を焼かせるか、埋めさせる。

 もしくは、本能寺の外に運ばせるかのいずれかである。

 確実な人物に託して外に運んでもらえるのが最良かもしれないが、そうすると、途中で光秀に奪われる可能性もある。信長と親交のあったイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、「髪から骨までが灰燼となった」と記す。光秀に奪われるリスクを承知で信長が首を外に運ばせようとしたのかどうか。謎はつきないが、みなさんはとのようにお考えだろうか。