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「首実験」と噂が広まることを想定した晒し首

 戦いに勝った側は、負けた側の大将の首を使って、首実検を行う。首実検とは、文字通り、その首が本人のものかどうか吟味するわけである。現代のように写真などがない時代、名前は知られていても、顔まで知られているとは限らない。まして、敵の大将ともなれば、顔を見る機会すら、ほとんどなかったであろう。そのため、もとの家臣や、なんらかの接点があった者を呼び、確認させたのである。首実検で、本人のものと確認された首は、晒されることになった。こうして、確実に討ち取ったことを公にしたのである。もちろん、それは自分の領国だけでなく、他国にまで噂として広がることを見越してのことだった。

 一定の期間晒された首は、役目を果たしたことになり、埋葬される。ちなみに、首を埋葬した塚を首塚と呼び、胴を埋葬した塚を胴塚と呼ぶ。合戦で討ち死にした場合、この首塚と胴塚は、ほとんどの場合、別な場所に存在することになる。

 信長自身も、いくつもの戦いに出陣しており、それぞれ首実検を行ってきた。たとえば、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いでは、今川義元の首をそのころの居城があった清須(清洲)に持ち帰って晒し首にしている。また、天正元年(1573)には、朝倉義景・浅井長政を討つと、その首を「はくだみ」にして新年の宴で披露した。「はくだみ」とは、頭蓋骨に漆を塗り、金粉をまぶすことをいう。

 信長が、敵の首をこのように扱ったのは、首を晒すことの効果を理解していたからである。そんな信長が、自らの死を覚悟したとき、真っ先に考えたのは遺体の扱われ方であったことは想像に難くない。

 首が光秀の手に渡れば、必ずや晒し首にされ、光秀の謀反が正当化されることになることを、信長は誰よりも理解していたはずである。晒し首にするということは、名誉の死ではなく、罪人として殺されたことになってしまう。光秀は、信長の首を晒すことで、信長の非を訴え、謀反を正当化することもできたのである。

 儒学者の小瀬甫庵が書いた『信長記』という信長の一代記には、本能寺を占拠した光秀は、「首を求めけれども更に見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も其の恐れ甚だしく、士卒に命じて事の外尋ねさせけれども何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさへ見えざりつるとなり。」と書かれている。

 信長の首を探索させたが、骨すら見つからない状況に光秀はいらだっていたようである。もっとも、『信長記』は江戸時代の記録なので、史実かどうかはわからない。ただ、首が見つからないことに動揺していたのは確かだろう。

 もし、光秀が信長の首を手にしていたら、謀反の大義名分を得ることができたはずである。大義名分があれば、豊臣秀吉との山崎の戦いにも、勝利していたかもしれない。

 事実、秀吉は信長の遺臣らに対し、「信長様は生きているので、ともに光秀を討とう」と手紙で呼びかけていた。仮に信長が光秀によって確実に討たれたのが明らかとなっていれば、成り行きで光秀に従った遺臣も、多かったのではなかろうか。戦後時代の武士にとってなによりも大事なことは、主君への忠義ではなく、自分の家を存続させることだったからである。