オーストラリアやニュージーランドも、また左側通行だ。実はこの2カ国は現在でもエリザベス2世女王を元首としている。国家元首の地位は名目上のものに過ぎないが、それでも制度上は立憲君主制なのである。これらの2カ国が左側通行であるのはきわめて自然なことだ。
ナポレオン戦争で右側通行が普及
英国は左側通行だが、欧州大陸は基本的に右側通行である。欧州大陸が右側通行になった理由は、18世紀初頭のナポレオン戦争以降のことだ。
ナポレオン率いるフランス国民軍に敗退し、その支配下に入った欧州大陸の諸国には、フランスが生み出したさまざまな諸制度が移転された。その1つが右側通行であった。ナポレオンは軍事上の必要性から右側通行を制度化し、道路標識なども導入していた(詳しくは拙著『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』の第5章8「『ナポレオン戦争』が『近代化』を促進した」を参照いただきたい)
政治上の右翼と左翼の起源がフランス革命中の国民議会の座席の位置から来ているのとは違って、道路交通規則としての右側交通には合理的な理由があった。フランスで右側通行になった理由について、『舗装と下水道の文化』(岡並木、論創社、1985)という本の中に説明がある。要約して紹介しておこう。
当時は馬車の時代であり、フランスでは4頭立ての馬車の場合、馭者(ぎょしゃ)は先頭の2匹の馬のうち左側の馬にのって制御していた。このため道路の右側を走行する方が馭者にとっては安全だったのだ(制御する馬が道路の中央近くにいることになるので)。19世紀の終わりから自動車時代が始まると、馬車にならって「右側通行で左ハンドル」という形に移行していくことになる。
一方、英国では馭者は馬上ではなく、中央に位置する御者台に座って馬車を制御していた。利き腕の右手で右側の馬を制御する方が容易なので、左側通行が主流になったのだという。
以上のように英国が左側通行、フランスが右側通行になった理由は、自動車以前の馬車の時代にあったのである。
英国と同じアングロサクソンでありながら米国が右側通行になったのは、そもそも米国が英国から戦争によって独立を勝ち取った国であり、英国と米国の関係は長期にわたって反目し合っていたことを考えるべきだろう。米国に「自由の女神」を寄贈したのはフランスである。