生きているものは、すべからく自己の生存を維持する機能を完備していなければ一刻たりともその生を継続することは不可能である。
そのためわが身に迫る危険を早期に察知する情報収集能力、自己を襲う恐れのある外敵から身を隠蔽あるいは欺瞞によって回避する能力、直接襲撃され逃避出来ない場合には最後の手段として反撃力や集団の力によって自分を護る能力などが必要である。
国家にしても規模こそ違え、その生存手段は似たようなものであり日本人自身がそれらの能力を備えるのは当然である。その各種機能を時の状況に合わせ有為な人材が中核となって最高度に発揮しなければならない。
ところが最近の日本においてはその生存のための基本的能力と決意がひ弱になっているのではないかと思える兆候が濃厚になっているように思え、将来が気がかりである。
日本国民の多くが、国家や社会への貢献、社会的に高い地位を得るための努力・忍耐・誠実という精神要素など一昔までは美徳とされた処世訓が軽視され、享楽的、刹那主義的な考えと、少なからぬ若者が将来への希望など描いていない傾向にあるようである。
かく言う私自身も中学生・高校生の頃そんなことを考えてはいなかったが、父や叔父たちの話題にはそのような精神要素を美徳とする雰囲気が色濃く残っており、当時はまだ社会的規範となっていた。
そして、歴史をはじめ人間が引き起こす社会現象を少し勉強すれば、自分自身が幸せに生存を全うする前提条件として自分自身の努力なしに達成できないことが理解できるようになってくる。
しかし、最近の学校の教師やジャーナリストは言うに及ばず、国民を代表する国会議員、はたまた一部政党の党首に至るまでそんな気骨は微塵も感じられないケースが散見される。
彼らには信念らしきものはなく、世の風が吹く方向を敏感に感じ取って選挙に有利な時流に乗ろうと、離合集散して腰が定まらない。
野党議員一部には「平和憲法厳守」「平和憲法さえあれば平和が永続する」などと公言して憚らない惚けた盲信主義者がいるが、これに輪をかけて彼らを支持する国民が存在するという馬鹿げた国に成り下がってしまった情けない状況である。