
2025年3月20日で、世界で初めて発生した化学兵器による無差別テロと言われる地下鉄サリン事件から30年を経過した。
3月20日夜に放映されたNHKスペシャル「オウム真理教 狂気の“11月戦争”」の中で、当時の警視庁トップの警視総監として、地下鉄サリン事件などの捜査を指揮した井上幸彦氏は、オウム事件が残した教訓について次のように述べていた。
「兆候を捉えられなかった。これはどこに原因があるのか。我々はオウムという団体を、そこまで危険な団体だと思っていなかった」
「松本サリン事件にオウムが関連しているのではないかという懸念があったとしても、当時まだ警視庁の中で『オウムが危ないです』と私に情報が上がってくる状況になっていなかった」
「それを防ぐには、警察の情報収集能力を磨き、危険な兆候をできるだけ早く察知していく以外にありません」
「これはいつの世にも求められることでしょう。そういう能力を蓄えていかなければ、これから警察の仕事は、果たし得ないと思います」
さて、オウム真理教(以下「教団」という)は、麻原彰晃こと松本智津夫が教祖・創始者として設立した宗教団体である。
教団は1984年2月、麻原彰晃が発足させた「オウム神仙の会」を母体とする宗教団体であり、1987年7月に名称を「オウム真理教」に変更した。
教団は、1990年の第39回衆院選挙に際し、政治団体「真理党」を結成して教団代表および多数の教団信者が立候補したが、全員落選した。
また、教団の基盤作りの一環として進出した熊本県阿蘇郡波野村の教団施設をめぐり、地元住民による反対運動等が展開され、同年10月には、国土利用計画法違反等により強制捜査を受け、教団信者が逮捕された。
教団はこれらを国家権力等による弾圧であるととらえた。
教団の目的を実現するためには、敵対する者を含め一般人に対する無差別大量殺人の実施と国家権力を攻撃し打倒することが必要であるとして、小銃、有毒ガス等の量産を決意し、山梨県上九一色村等にそれらを大量製造するための大規模な施設を設けて、研究・開発および製造を開始した。
また、1993年12月には、東京を中心にサリン等を散布する準備としてロシアからヘリコプターを購入するなど、大規模な武装化を進めた。
上記のように、教団は国家を転覆させるクーデターを起こそうとしていたのである。
では、なぜ警察はこのような国家の危機に関わる重大な兆候を察知できなかったのか。
それは、警察が教団に関する秘密情報を入手することができなかったからである。
秘密情報を入手する有効な方法は通信傍受である。
我が国では、2000年に「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」が施行された。
この法律は、我が国において犯罪捜査のための通信の傍受を合法として認めた最初の法律である。従って、2000年以前は、通信傍受は認められていなかった。
また、我が国では「盗聴」を取り締まる法律はいまだに制定されていない。盗聴行為は多くの法律に抵触するため、警察は行うことができない。
1985年から86年にかけて、当時日本共産党国際部長であった緒方靖夫氏宅の電話が公安警察官によって盗聴されるという日本共産党幹部宅盗聴事件が発生した。
当時の警察庁長官は参議院予算委員会において「警察におきましては、過去においても現在においても電話盗聴は行っておりません」と答弁した。
組織には責任がなく、盗聴を行った警察官個人の責任であるとした。
以上のように、当時の状況では警察が教団の危険な兆候を察知できなかったことも致し方ないと言える。
しかし、筆者はこの問題の根本的な原因は、戦後、我が国が防諜組織を創設してこなかったからであると考える。
残念ながら、オウム真理教事件の教訓は生かされず、現在も防諜組織は整備されていない。
なぜ、オウム真理教の教訓は生かされないのであろうか。
戦前の日本では、国家が特高警察や憲兵などを濫用して思想弾圧や行き過ぎた監視を行うなど、国民の権利や自由を大幅に侵害した。
このため、戦後の日本では、防諜は国家が国民を監視抑圧することに繋がり、組織や制度を作ることへの警戒感が根強くあった。
その結果、国内だけでなく国外諜報機関も整備されてこなかった。
そのツケは大きい。筆者は、日本の防諜機関と国外諜報機関、いわゆるインテリジェンス機関が整備されていたらならば、北朝鮮の拉致事件も起きていなかったのではないかと思っている。
当時、日本が国外における諜報活動を行っていれば、日本の宗教団体がロシアからヘリコプターを購入したという情報や朝鮮労働党が日本人の拉致を企てているという情報が入手できたかもしれない。
本稿で、筆者は防諜機関を整備する際に参考となる英国のMI5について述べてみたい。
MI5は、一般に防諜機関と称されるが、正式名称はセキュリティ・サービス(Security Service)である。
米のFBI(米連邦捜査局)とは異なり逮捕権や強制捜査権を与えられていない。その意味で純粋な情報組織といえる。
以下、初めにMI5が秘密情報を収集する4つの手段について述べ、次にMI5の概況について述べる。