子どもの宿題で家族のストレス増える、米研究

米メリーランド州で、自宅で宿題をする少女(資料写真)〔AFPBB News

 日本の高等教育ではスーパーグローバル大学/スーパーグローバル大学院化という政策が10年の時間規模で進められています。

 これについて、広く共有されている基本的な条件もあれば、政策の題目先行で中身が詰まっていないものもあるのが、過不足ない現状だと認識しています。

 私自身、自分が籍を置く大学で、この政策の一端に関わっており、その観点から自分が考える、国際的な高等教育の今後のあるべき姿について、原理原則を立て、従来の惰性や失敗例と明確な差別化を図りながら、慎重に、しかし決意をもって物事を進めており、コラムとして記せる範囲を平易に解説してみたいと思っています。

実の詰まった教育を

 まず、最初に、これは原理的で率直に実現性が低いものと思いますが、教育が本来どうであるべきか、という大原則から確認しておきたいと思います。

 中身のある教育をすべきと思っています。

 逆に言えば、現在の教育は初等、中等教育も、高等教育とされるものも、中身を欠いた空ろな形骸に堕している懸念を強く抱いています。

 具体的に言えば、小中学校の内容を十分理解もマスターもせず、短大あるいは4年制大学であっても「リメディアル教育」などとして分数や少数の計算など、初歩的な内容を20歳前後の学生に補習し、それをもって就職率の維持向上の一助としている大学の例などを現実に知ることから、少なくとも一部に、そのような初等中等教育の空洞化があるのは間違いないものと思います。

 またそうした初等中等教育の補習が「高等教育機関」であるはずの大学でなされている現実そのものも、何もしないよりははるかによいと思いますが、ある種の高等教育機関としての空洞化を示しています。

 つまり、小中学校の内容を体得していない子供を、その上の高等学校を卒業したはずの大学受験生として入試で選抜して学園に迎え入れているわけで、学校経営が優先し、有資格者を選抜して高度な教育を課すという大学の本義から見れば、すでに相当おかしなことです。

 本末転倒と言わざるを得ません。