公然と日本政府を批判することも
なにより驚くべきことに、学生たちにはある特権が与えられていたという。「言論の自由」である。
学内では民族に関わらずすべての学生に等しく「言論の自由」が認められており、公然と日本政府の政策を批判することも許されていたというのだ。
その特権は彼らのなかに独自の文化を生み出した。塾内では毎晩のように言論の自由が保障された「座談会」が開催され、朝鮮人学生や中国人学生たちとの議論のなかで、日本政府に対する激しい非難が連日のように日本人学生へと向けられたのだ
同世代の若者同士が一定期間、対等な立場で生活を送れば、民族の間に優劣の差などないことは誰もが簡単に見抜けてしまう。彼らは、日本は優越民族の国であるという選民思想に踊らされていた当時の大多数の日本人のなかで、政府が掲げる理想がいかに矛盾に満ちたものであるのかを身をもって知り抜いていた、極めて希有な日本人でもあった
「五族協和も建国大学も、侵略戦争をごまかす道具ではないのか。」
徹底的に議論する。様々な言語が飛び交う。時にはつかみ合いにもなる。徐々にお互いが何を考えているのか、何を背負っているのかわかってくる。互いの痛みがわかってくる。
互いの痛みがわかるようになると、人間は大きく変わっていくのです
こうして学生たちは出自を越えて絆を結んだ。傀儡国家の広告塔という大学設立の思惑を越えて、それぞれの理想を実現しようと必死に学び始めるのである。
記録を消し口を閉ざした卒業生
だが、日本の敗戦ですべては幻と消えた。
わずか8年しか存在しなかった満州建国大学に関する書類はことごとく焼かれ、卒業生たちは口を閉ざした。
日本人学生の多くは敗戦直後のソ連の不法行為によってシベリアに送られ、帰国後も傀儡国家の最高学府出身者というレッテルにより、高い学力と語学力を有しながらも多くの学生が相応の職種に就くことができなかった
中国人やロシア人、モンゴル人の学生たちの多くは戦後、「日本の帝国主義への協力者」とみなされ、自国の政府によって逮捕されたり、拷問を受けたり、自己批判を強要されたりした。ある学生は殺され、ある学生は自殺し、ある学生は極北の僻地に隔離されて、馬や牛と同じような環境で何十年間も強制労働を強いられた