秀頼が自分の子でないと知っていたのか
秀吉自身は秀頼が自分の子でないことを知っていた可能性が高いように思います。秀吉ほどの知略の持ち主であれば、托卵されていた事実に気づいていなかったとは考えにくい。もっとも、托卵に気づいていたからといってそれを問題にすることもなかったでしょう。
私が思うに、秀吉という人物は、あまり細かいことは気にせず、「俺の愛した女が生んだ子なのだから、俺の子として育てる」と主張するくらいの度量を持っていたのではないかと思います。
秀吉にとっては、血筋よりも「豊臣家が続くこと」こそが重要だったはずです。仮に秀頼の風貌が別の身近な男性に似ていたとしても、天下人である秀吉が「この子は俺の子だ」と言えば、それが真実になる時代でした。秀吉自身が自分の子として認めた瞬間に、その子は豊臣家の後継者となれたのです。
こうして考えてみると、秀頼の誕生こそ、武士社会における「究極の托卵」の事例です。
なお、戦国時代が終わり、平和な江戸時代が訪れても、「血」よりも「家」を重んじる姿勢は見られます。
ただし、徳川将軍家には変化が生じました。そう、将軍と女性のみの空間、大奥の誕生です。幕府は国の学問として儒学を重んじましたので、その影響があったものと思われます。
とはいえ、大名に目を転じると、血縁はまったくない養子が迎えられている例はたくさんあるわけで、やはり「血」より「家」なのです。そして、「家」を重んじる厳格な風潮は、江戸時代頃から社会全体に浸透していった儒学が説く厳格な家父長制と合体し、明治以降の男性優位な社会をかたちづくる一因となっていきました。
