秀頼を戦場に出すと「実の父」がバレる 

 さて、ここから先は笑い話として読んでいただきたいのですが、「秀頼は秀吉の子どもではない説」に対して、一つの根拠を与えるエピソードがあります。

 それは、淀殿は秀頼が戦場に立つことを極端に嫌がったというもの。関ヶ原の戦いのときは秀頼がまだ幼かったため仕方ないとしても、大坂の陣のときですら「ここで負ければ豊臣家は滅ぶ」とわかっていながら、淀殿は秀頼を戦の最前線には出しませんでした。

 真田信繁(幸村)などが「秀頼様が出馬されれば士気が大いに上がります」と必死に進言しても、淀殿は最後まで首を縦に振らなかったといいます。そして、結局、秀頼はなんの活動もしないまま、大坂城本丸の北側の一角・山里丸で切腹して果てることになります。

 では、なぜここまで淀殿は秀頼を表に出すのを嫌がったのか。私はこう考えます。「秀頼が、実の父親にあまりにもそっくりだったのではないか」と。つまり、誰もが顔を見た瞬間に、

「あれ? これはもしや、秀吉様ではなく、あの方の子では……」

 と察してしまうほど、実の父に似ていたのではないかというわけです。

 大野治長(はるなが)や石田三成など、実父として考えられる人はたくさんいます。ともかく、秀頼が公の場に出ることで「秀頼様はあの人物の子かもしれない」と勘繰(かんぐ)られることを、淀殿は恐れていたのではないか。これは、半分は冗談ですが、半分は私が本気で考えている説です。

 もちろん、この仮説には矛盾もあります。その一つが二条城での徳川家康との会見に秀頼が出席しているという事実です。勘の良い家康に顔を見られれば、「あぁ、秀頼様はあの人の子ではないか」とすぐにバレてしまったことでしょう。

 もっとも、本当に誰にも姿を見せたくなかったのなら、この場でも身代わりを立てた可能性もあるのではないか……と、あれこれ想像は尽きません。