ピカソ戦を終えた夜、井上は再び世界の中心に立った。だが、その視線の先は、すでに次の舞台を見据えている。2026年5月の東京ドームで中谷と対峙するのか、あるいはフェザー級転向で夢の5階級制覇を狙うのか。あるいは、その両方を内包した“われわれの想像をも超越し、誰も見たことのない前人未到のルート”へ突き進んでいくのか。答えはまだ明かされていない。
ただ一つ確かなのは、井上尚弥の「次」はリングの外で周囲を取り巻く関係者のさまざまな思惑とともに、確実に動き始めているということだ。
井上はもはや単なる「歴代最強王者」ではない
合理性と効率を最優先する現代ボクシングの潮流の中で井上の進路をめぐる議論が、ここまで複雑な様相を帯びているのは決して偶然ではない。階級を上げ、勝ち続け、最短距離でレガシーを積み上げてきたモンスターは、すでに「勝てば正義」という次元を超え「どの勝利が最も価値を持つのか」を問われる段階に入っている。
スーパーバンタム級での国内ドリームマッチとして期待された中谷戦が、ここにきて微妙な空気を帯び始めたのも、その文脈の延長線上にある。日本人同士の頂上決戦は、国内的な盛り上がりという点では申し分ない。しかし、世界市場を主戦場とするプロモーターや放映権ビジネスの視点に立てば「日本の中で完結する最強決定戦」が、どこまで国際的な価値を持つのか――という冷静な計算も働く。
井上陣営にとって重要なのは、勝敗以上に「物語の設計」である。スーパーバンタムで無敗のまま中谷を退ける展開は、日本のファンにとっては痛快でも世界的には「想定内」で終わる可能性がある。一方でフェザー級へ踏み出し、未知の強敵と対峙しながら5階級制覇に挑む道は成功すれば歴史的価値を持ち、仮に苦戦しても物語性は失われない。
そしてここで浮上してくるのが、いわゆる「時間差構想」だ。中谷がスーパーバンタムで経験を積み、あるいは別の強豪と交錯しながら評価を高め、その先でフェザー級という新たな舞台で井上と交わる──。この流れであれば、両者の価値を同時に高めることができ、潰し合いという批判も回避できる。興行としても、競技としても、最も合理的な選択肢に見える。