渋谷の恋文横丁が「日本式餃子」始まりの地
珉珉が店を構えた渋谷の「恋文横丁」は、第二次世界大戦後、在日米軍将兵と恋仲になり、朝鮮戦争(1950〜1953年)などで離れ離れになった日本人女性のための恋文の代筆・翻訳屋が現れたことから名づけられた。
1953年のアサヒグラフに掲載された恋文横丁の様子(写真:朝日新聞社,Public domain,Wikimedia)
そこには餃子店が密集し、各店舗が「味一番」を競い合ったことから、「ニンニク横丁」とも呼ばれた。珉珉もニンニクをたっぷり入れて、「うちの餃子はスタミナがつく」とアピールしたという。
こうして渋谷を発信地として、餡のなかにニンニクを入れて焼く日本式餃子のスタンダードができていった。
なお、高橋通博から住み込みで焼き餃子の作り方を習った旧友の画家・古田やすおが、一九五三年、大阪で「珉珉」を開業し、のちにチェーン展開して今に至っている。これらは、宇都宮の有名店「みんみん」とは無関係である。
餃子は、1953年頃から本格的に流行し始めた。
その当時には「栄養第一主義」、「安くてうまくて、実質的」であるため、「こんにち向き」であるといわれていた。
戦後の東京都内には中華料理店が1000軒以上あり、高級店の多くが中国人・朝鮮人によって経営されていたのに対して、餃子店はすべて日本人、とくに満洲からの引揚者たちが経営していた。
餃子はまず東京で人気となり、1970年代でもまだ関西より東京で人気が高かった。