満蒙開拓団の記録に残された、さまざまな餃子への思い

 満蒙開拓団は、1932年から45年の敗戦までに、日本の国策として満洲国と内モンゴル東部に送り込まれた約27万人の入植者を指す。

1936年頃の満蒙開拓移民(写真:近現代PL/アフロ)

 それは、平常時には治安を維持し、非常時には防衛拠点、補給基地になることを目指した屯田兵のような武装移民団であった。

 1928年に中国東北地方の軍事指導者・張作霖を爆殺した東宮鉄男大尉が構想し、関東軍や日本本国の拓務省(植民地省に当たる)などが推進した。 この「開拓団」という名称には偽りがあった。実際には現地の中国人から畑や家を買いたたき、あるいは暴力で追い出して、そこへ無理やり連れて来た日本人を住まわせるようなことを「開拓」と呼んでいた。

 日本の中華料理史に関する最初の本格的な研究書『一衣帯水―中国料理伝来史』(1989年)を記した田中静一は、満洲の開拓団員として、新京の力行(りっこう)村の指導員団長代理などを務めた。

 田中によれば、満洲在住の日本人の大部分を占めた下級軍人や開拓団員のほとんどは、本格的な中華料理を食べる機会がなかったが、日本食よりも安い餃子や麺類は日常的に食べていたという。

 餃子は、皮にする小麦粉も、餡の肉・ネギ・白菜も、すべて自家生産できたから、開拓団に適した料理であった。

 ただし、満洲の日本人社会は、居留者、非定住者、開拓団の3つのグループに分かれており、とくに非定住者のなかには餃子を好まない人々もいた。

 例えば、満洲に駐在した水野二等兵の証言によると、日本から満洲に派遣された兵士は、餃子を「支那人の食ふものだ」と見下していたという。

 とはいえ、満洲の日本人が餃子を拒んだ記録は、おいしくて栄養があるから好んで食べたという記録よりもはるかに少ない。この点は、英領インドのイギリス人のカレー料理に対する態度と同じである。

 さらに、中国人の食べ物だからという理由で餃子を拒んだ人々がいたことは、第二次世界大戦後に満洲へのノスタルジアと餃子ブームが高まると、完全に忘れ去られていった。