「満洲料理」の代表としての餃子
満洲在住の日本人の家庭では、1920年代には餃子が作られていた。
満蒙文化協会は1924年末頃、大連在住の50人余りの日本人女性のために「家庭支那料理の講習会」を開き、食事に関する「支那趣味の鼓吹(こすい)」をしたという。
この講習会の料理には、豚肉やエビを入れた水餃子(「三鮮餃子」)があった。
同じ頃、日本が支配する満鉄沿線の鉄道附属地に住む日本人主婦のためにも「支那料理講習会」が開かれ、かつて清朝皇室の料理人であった李鴻恩が講師を務めた。
その講習内容をもとに、日本陸軍の通訳官が編集した『手軽な惣菜向け支那料理』(1925年)には、豚肉餡の蒸し餃子が掲載されている。
1930年代半ばには、「満洲料理」や「満洲を代表する料理」を見つけようとする風潮が強まり、そうした料理として「豚饅頭」、つまり「餃子」がしばしば真っ先に挙げられた。
例えば、新潟の書家・高橋松顧は、1937年に満洲を旅行し、そのときの紀行文を『豚饅頭』という本にまとめて出版している。高橋によれば、「豚饅頭と題したのは満洲名物であり、著者の大好物であるからだ」という。
また、「支那料理」と区別される「満洲料理」の確立を目指していた山田政平は、1938年の『主婦の友』で「新興国の満洲からぜひ味わって頂きたいギョーザの作り方を申上げましょう」として、「お菜〔おかず〕にも御飯代りにもなる満洲料理ギョーザ」を紹介している。
さらに、東京にあった満洲国大使館員の夫人も、『主婦の友』誌上で「大陸料理」として焼き餃子や水餃子を紹介している。
このように餃子を手軽な「満洲料理」「大陸料理」として宣伝することは、日本の女性たちに中国侵略の現実を忘れさせ、満蒙開拓団への参加を後押しする場合があっただろう。