殺人へと至る情念は普遍的
松本清張のミステリーは、誰がやったかや、どうやったかよりも、なぜやったかに主眼が置かれている作品が多い。トリックより動機を重視すべきと、繰り返し述べていたそうだ。
とはいえ、清張はトリックを軽視していたわけではなく、トリックが好きだったとも伝えられているが(『松本清張の世界』)、動機に焦点を当てたことも、長く読み継がれる要因の一つだろう。『点と線』の有名なトリックは古びたとしても、殺人へと至る情念は普遍的なものだからである。
清張作品に描かれる動機には大きく二パターンあると思う。
一つは、人間が持つ「負」の要素に由来するものだ。たとえば『証言』では、主人公は小さな保身のために小さな嘘をつき、それがきっかけとなって地獄へと転落していく。自分も身に覚えがあるだけに怖いのだ。松本清張の大ファンだというみうらじゅん氏は、編者をつとめた『清張地獄八景』で清張作品の核心を「因果応報」と表現している。すごく納得する。
それからもう一つは、時代や社会、その人が置かれた環境が犯罪を生み出すパターンである。映画が有名な『砂の器』はこちらだろう。個人は時代や組織といった大きなものの影響を受けざるを得ない小さな存在であるから悲しい。そしてこの二つは切り離されているのではなく、複雑に絡み合うことで動機が複雑化していくから、小説としては面白くなる。
短編には組織の中で汲々とするサラリーマンの苦悩を描いた作品も多く、それらを昭和の遺産と捉えることができるかどうかは人によるかもしれない。私は『空白の意匠』を読んで、時代を感じつつも、引き込まれた。つまり、過去の話とは思えなかった。
そういうわけで清張作品はこれからも読まれていくだろうと思うし、そうであってほしいと、いちファンとして願う。SNSやネット記事のコメント欄に広がる、他人を過度に糾弾する言説を見るたびに、「完璧な人間などいないのに」と、私は自戒を込めて清張作品を思い出す。
有名タイトルが揃う長編のみならず、読みやすい長さの短編も傑作揃いで、人間の愚かさとしぶとさ、心理の妙を教えてくれる。清張作品は終わり方もいい。とりわけ『月』のラスト、『一年半待て』のラストには驚いた。
救いはなくとも、真理がある。だから何度でも読み返したくなるのだ。
松本清張(1959年撮影、写真:中谷吉隆/アフロ)




