「政治家は噓つきだ」と公言しながら政治家と向き合う

 特定の政党との長期的な関係は、どうしても相互依存を生み出しがちだ。発注側は「長い付き合いなのだから」という暗黙の期待を持ち、受注側も「次の仕事があるかもしれない」という心理的バイアスを抱える。これらが政治評論の言説の独立性を蝕む要因になりかねないように思われる。

「甘えの構造」である。

 実際、政治評論の世界では、特定政党との密接な関係を築くことで影響力を得てきた/得ようとする者も存在するから厄介だ。「電話一本で話が聞ける」などというやり方はその代表例だ。

 日本では、相当程度テレビ番組などで相当幅を利かせている印象も強い。しかし、そうした関係性は必然的に批判的視点を鈍らせることはいうまでもないはずだ。

「政党と仕事」をするというのは、事ほど左様に難しくて敏感な話題だ。それなりに長い期間仕事をしてきたが、そのことを最近改めて痛感している。

 政界の動きを眺めながら、政治評論を行うとき、各政党、政治家とどのような距離感を保つべきか改めて考えさせられている。

 理念と現実政治の妥協をどう折り合わせるかは、すべての関係者が直面するジレンマでもある。だが、その妥協の過程を正確に伝えることもまた政治評論の仕事であり、そのためには特定政党との深入りした関係は障害にしかならない。

 政治家は職業柄、言葉を武器として使う。その言葉の裏側にある意図、文脈、制約条件を読み解くことは政治評論の仕事でもある。

 格好がよいことを言うのは簡単だが、実行は案外簡単なことではないし、継続し、社会に信頼されるとなれば尚更だ。

 政治家が嘘つきであると公言しながら、それでもなお政治と向き合い続けることの意味を自分自身で常に問い直さなければならない。

 現実政治を見つめる者の一人として、政治の現場に近づきすぎれば批判的距離感を失い、遠ざかりすぎれば現実感を欠いた空論に陥りかねない。そのバランスをどのようにして保つことができるのかは永遠の課題であり続けるのかもしれない。

 みなさんが筆者なら、どのように、政治と、政党と、そして政治家と向き合うだろうか。