オスマン帝国の伝統的絵画はなぜ衰退したのか?
──19世紀に入るとオスマン帝国の伝統的な細密画は姿を消していった、と書かれていました。
小笠原:その要因はかなり難しい問題で、多くのトルコ美術史研究者たちが取り組んでいるものの、まだ「これだ」という説は出ていません。ただ、大きな理由としては、細密画の性質にあると考えられます。
そもそも細密画は、写本、つまり手書きの本に挿絵として入れられることが多くありました。18世紀から19世紀にかけて印刷文化が発展し、手書きで本を書くことが少なくなり、やがては途絶えてしまいます。そのため、手書きの本に絵を添えるということが稀になってきたということが挙げられます。
もう一つは、西洋絵画の影響が非常に強かったということも言えます。この頃は、絵画の流行が新古典期のそれから西洋風のものに移り変わっていった時期。古典期と新古典期の違いで説明したように、新古典期の細密画から西洋風の絵画に世間の嗜好が変化していったのではないかと考えられます。
──西洋風の絵画が好まれるようになったのには、時代的な背景も影響しているのでしょうか。
小笠原:18世紀のレヴニーが活躍した時代から、西洋の文化も学ぶべきだという考えがオスマン帝国内でも起こりました。そこで、フランスに使節団を送り込むような試みも始まりました。そのようなかたちで、徐々に西洋文化に目を開かれていきました。
軍事的な観点から来た理由もあります。
オスマン帝国は、17世紀半ばまでは西洋に対して優位な立場にありました。ところが、17世紀後半頃から徐々に西洋諸国と拮抗するようになっていき、18世紀後半には西洋の列強と呼ばれる国々に対して、ほとんど勝てなくなってしまいます。そのため、文化的なことよりもはるかに重要な課題として、オスマン帝国は18世紀後半から軍事の近代化を推し進めるようになります。
文化面に対して、無理やり西洋化を推し進めようという施策はなかったにしろ、そのようなオスマン帝国全体の潮流から、絵画も無縁ではいられなかったと考えられます。
日本の近代化との類似点
──幕末や明治維新の頃の日本と非常に良く似た歴史を辿っていますね。
小笠原:たしかに、オスマン帝国の近代化と日本の近代化はよく比較されます。どちらも欧州の圧力にさらされて、近代化に腐心しました。日本はそれなりにうまくいきましたが、オスマン帝国は最終的には滅亡してトルコ共和国となりました。

オスマン帝国における細密画は、日本における浮世絵と類似した変遷を辿っています。江戸時代、浮世絵は民衆文化として定着しますが、近代になって急速に衰退し、廃れてしまいました。ただ、細密画は浮世絵ほど一般民衆に広く浸透していなかったと思われます。そのため、細密画は日本の浮世絵と比較して急速に衰退していきました。
──ルネサンスほどではないにせよ、日本でも後世になって日本古典文化の再生や復活の動きが起こります。オスマン美術に関しても、そのようなことはあったのでしょうか。
小笠原:オスマン帝国は滅び、1923年にトルコ共和国が成立します。それに伴い、細密画の文化も途絶えてしまいます。トルコ共和国は、自ら西洋化・近代化を発展させることを最優先事項としていた国家でした。この時期、オスマン帝国の文化を顧みるような動きはほとんどなかったと言えるでしょう。
ただ、この20年ほどの話ですが、トルコではオスマン文化のリバイバルが非常に盛んになっています。若い芸術家たちが、盛んに細密画を描いています。こうした歴史的な背景を知っていただくことで、オスマン美術により親近感が湧くのではないかと思っています。
小笠原 弘幸(おがさわら・ひろゆき)
九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明史学講座准教授
1974年、北海道生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。専門はオスマン帝国史、トルコ共和国史。2013年より現職。2019年、『オスマン帝国』(中公新書)で第14回樫山純三郎賞一般書賞を受賞。その他、著書多数。
関 瑶子(せき・ようこ)
早稲田大学大学院創造理工学研究科修士課程修了。素材メーカーの研究開発部門・営業企画部門、市場調査会社、外資系コンサルティング会社を経て独立。YouTubeチャンネル「著者が語る」の運営に参画中。



