昨年の公演に参加した80歳を超える参加者は、「来年は生きているか分からない」と語っていたが、今年も元気に練習場に現れた。「また歌える」という希望が、生命力そのものになっていた。楽しそうに歌う大人たちの姿は、閉塞感のある現代日本において、子供たちへのポジティブなメッセージとなる。言葉ではなく、背中で、歌声で、それを伝えることができる。

「僕たちがプロだからといって、自分の演奏だけを追求していては、日本のクラシック文化は廃れてしまう。お客さんも育たないし、次世代のアーティストも生まれない」

 市民自身がプレイヤーとなることで、クラシック音楽への理解が深まり、将来的な「聴衆」の育成にもつながる。また、老若男女が集い、一つの目標に向かう姿は、地域のコミュニティ維持機能としても作用している。後田自身、市民の情熱に支えられているという実感がある。ステージ上で背中に受ける120人の歌声は、時にプロの彼をも圧倒するエネルギーを放つ。

地方都市が示す文化の未来形

 西条市での取り組みは、人口減少が進む地方都市において、いかにして高度な芸術文化を維持するかという課題に対する一つの回答例になるだろう。それは、行政による「保護」ではなく、市民の「参加」と「出資」によって文化を支える自立型モデルだ。プロフェッショナルは象牙の塔にこもるのではなく、地域に降り立ち、アマチュアを牽引する役割を担う。

 12月14日、西条市総合文化会館。指揮者がタクトを振り下ろす瞬間、農家も、税理士も、教師も、そしてプロの音楽家も、すべての肩書きが溶け合い、一つの「音」になる。観客席に詰めかけるオーディエンスへのチケットは手売りで、団員たちが家族や友人に配ったものも多い。その地道な集客が、このコンサートの熱を生んでいる。

 ドイツ・ライプチヒのゲヴァントハウスでもなく、ミラノのスカラ座でもない。四国の地方都市の、決して音響が完璧とはいえないホールで鳴り響くのは、単なるベートーヴェンの交響曲ではない。プロとアマチュアが互いのリソースを補完し合いながら成立させる、日本独自の文化エコシステムの証明である。

 終演後、彼らはすぐに来年のホールの予約に向かう。赤字か黒字か、その収支に一喜一憂しながらも、活動は続いていく。この街に水が湧き続ける限り、その歌声が枯れることはない。 (文中敬称略)