プロパガンダとして作られた八雲像

──戦時体制下で、八雲文学の読まれ方が変わったと書かれています。

大塚:「八雲は日本が大好きで、日本を礼賛した外国人」という印象を持つ方は少なくないと思いますが、そうした八雲像が作られたのは太平洋戦争です。

 晩年の八雲はアメリカに子供を連れて帰りたいと考えていました。アメリカで子供に教育を受けさせたいと考えていたのです。日本での暮らしにうんざりしてもいました。

 ちょうどアメリカの大学で連続講義をするという話もあり、講義用のノートを作っていました。この時期に東京帝国大学を退官しましたが、当初、平然としていられたのは、アメリカ行きが控えていたからです。しかし、結局アメリカでの講義は中止になり、それで早稲田に行くことになった。

 その時に作っていたノートをやがて書き直したものが『神国日本』です。八雲の本の中で、最初から最後まで一貫した章立てと論理構成を持っているのは、この『神国日本』くらいです。その他は短編集やエッセイ集などです。

 大正の末から昭和の初頭に八雲全集が出ます。その一冊として『神国日本』も翻訳されました。ところが、全集とは別に、15年戦争下、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と時局の進行にあたかも呼応するように『神国日本』は単独で繰り返し刊行されています。

『神国日本』は単体で世に出て、次に「戦時体制版」が出て、その後に再び「改訳」版が出ています。戦争中に3回も出ているのです。「戦時体制版」という名称もすごいですが、最後の改訳では、八雲の日本論は戦時体制に八雲はどう読まれるべきか、読者をミスリードする序文が付けられています。

──プロパガンダに使われたのですね。

大塚:出版統制が進行する中でなぜこの本が3回もバージョンを変えて世に出たのか。それは、戦時体制にとって有効だからです。国策に合っていたから刊行を許されたということです。

 ではどういう内容なのかというと、『極東の魂』を書いたローウェルの日本論につながっています。ローウェルは「極東の魂」、つまり日本人の自我は不成立だというもので、これは進化論的に劣っているからという説明がされます。だから、人々が束になったりまとまったりする集合的な形でしか自我を形成できないと考えました。

 八雲の日本論は、それを霊に置き換えています。