偶然やってくるのが幸せだという(写真:Zoey/イメージマート)
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 4世紀頃にインド北方の中央アジアで誕生した「大乗仏教の頂点」とも言われる華厳経。仏教学者の鈴木大拙は、いがみ合う世界に平和をもたらすのは華厳の思想しかないと考え、終戦後に華厳経を研究してその教えを語った。この時代、私たちは華厳経から何を学ぶことができるのか。前作『華厳という見方』に続き、『続 華厳という見方』(ケイオス出版)を上梓した芥川賞作家で僧侶の玄侑宗久氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)

※『華厳という見方』『続 華厳という見方』はアマゾンや楽天ブックスなどネット書店で販売される「プリントオンデマンド」です。書店店頭には並びません。

──仏教では「単独の私」はあり得ない。すべては常に影響し合っていると書かれています。

玄侑宗久氏(以下、玄侑):仏教の根本的な考え方に三法印(さんぼういん)と呼ばれるものがあり、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」がこれにあたります。そのうちの「諸法無我」が、まさにそのことを指しています。すべてはつながっているという考え方です。

 あらゆる生き物は「私」ではなくて「私たち」というモードを持っている。人間も他の生き物まで含めて「私たち」という感覚を持っています。しかし、現代の社会や教育の在り方は、どんどん「おひとり様」という方向へ向かっています。「私の個性」というものを重視する方向に向かい、「私たち」から「私」を切り離している。それは西洋からきた個性という考え方の影響だと思います。

 個の集合が全体を形成する。これが古代ギリシアの哲学者デモクリトス以来の西洋の考え方です。でも、個は全体と分けることができません。個が変化すれば全体も変化するし、全体の影響を受けない個はありえない。これが華厳経をはじめとした東洋の見方です。

 他者との関わり合いがわずらわしいという感覚を近現代は強めてきました。だから、コミュニケーションを取らなくても、自己完結できるという方向で科学技術を発展させました。象徴的な例がスマホです。皆で見るものだったテレビ、皆で聴くものだった音楽、そうしたものが個別に供給されるようになったのです。

 その結果、孤独になり、慌ててコミュニケーションを学び直そうという議論が始まっていますが、いまだに全体の流れは個別化していく方向に向かっているので、なかなか方向転換は難しいですね。

──先生は「個性」という考え方も疑っておられますね。

玄侑:個性という言葉は、英語の「Personality」の翻訳です。これはラテン語の「Persona」からきています。当初は「仮面」という意味でしたが、ローマ時代になると、キリスト教が誕生して「神の欠片」という意味で理解されるようになりました。

 神様の欠片が誰の中にもある。「神様の欠片が皆の中に入っているので、その部分を伸ばしましょう」という考え方から「個性を伸ばす」という考え方が出てきました。有用な部分だけが個性として評価されるということです。でも、人間は褒められる部分ばかりではありません。その取りこぼしというものが、現代社会の大きな闇を生んでいると思います。