「なりゆき任せが幸せを生む」
──原因を特定することがダメだと言っているわけでもないのですね。
玄侑:はい。しかし重要なことは、我々が原因のすべてを知ることはできないということです。その認識を持つことが大切です。
私たちは物事を偶然と必然に分けて考える。必然とは何かというと、自分の中で物事の発生要因、つまり因果律が明らかだと思われる場合です。でも、人生において重要なことは因果律で説明できないことばかりで、本当に多くのことが偶然としか思えない形で我々に押し寄せてきます。
なぜ私はここに生まれたのか。誰のもとに生まれたのか。人生の最初からそれは自分では決められません。誰と出会い結婚するのかさえ、やはり思い通りにはいかない。職業選択も同じで、偶然の出会いが人生を大きく変える。
これを仏教的にも俗語的にも「縁」と言います。因果律の行き着く先ではなくて、その外側にあって、横のほうからやってくるものが偶然であり、縁なのです。
我々は正面に目的を据えて、そこに向かって突き進むという考え方ばかりを学校で学びます。上手な道草のくい方など教わりません。でも、道草こそが重要なのです。これを探していたわけではなかったのだけれど、でもこれも面白いね、という出会いです。
道草をくうことを許して一緒に喜ぶ親も稀にいて、そのように喜べる人は、偶然の入り口を大きくできると思います。
幸せは英語で「Happiness」ですが、この語は「Happen」からきています。「Happening」と同じ語幹、ということは、偶然やってくるのが幸せなのです。偶然に目を向けなければ幸せにはなれません。
ところが、我々のいる管理社会は偶然の中には危険が多いと考えがちで、偶然性を排除した計画的な収穫を重んじる。合理的な防備ですね。安全性を増すかもしれないけれど、同時に幸せの入り口も塞いでいます。
──目的が偶然との出会いを抑制するというお話もありました。まさにこの部分ですね。
玄侑:そうですね。仕事でも今月の目標や今週の目標を掲げさせられますね。その目標に則らないほうによそ見してはならない。効率的に成果を出すことだけが求められる。そうすると、偶然を遮断するからいい出会いがない。
結婚が減ったり、少子化が進んだりする理由も、そのように偶然性を遮断していることが大きいと思います。なかなか賛成してもらえないと思いますが、なりゆき任せが幸せを生むのです。