「よく考えれば、みんな意味があって、みんな意味がない」
──現代人が再び目的を持たない生き方をするためには、訓練が必要だと思いますか? また、どんな訓練が必要でしょうか?
玄侑:坐禅は1つの訓練だと思います。自分の身体も含めて、五感を刺激するものをすべて受け身で受け入れる。感覚は鋭敏になるけれど、それを材料に思考はしない。あえて大脳皮質が休んだ状態を作り出すのです。全面的に受け身になる。案外それは、今の時代けっこう勇気がいることじゃないですかね。
──瞑想というのは、いったいどういう状態なのですか?
玄侑:「ヴィパッサナー瞑想」と「シャマタ瞑想」という2つの方法があります。古典的に言えば、ヴィパッサナーは「観」、シャマタは「止」という呼び方をします。
シャマタは何かに意識を集中して、集中をどんどん高めていってぶち抜ける。こちらは指導者がいないと、なかなか1人ではできません。
一方のヴィパッサナーは、変化し続けるものに意識を載せる。こちらは要領を学べば1人でもできます。
変化し続けることといえば、我々の身体がそうです。たとえば呼吸です。そこに意識を置いてやる。あるいは皮膚感覚や外から来る音とか。受け身で感受するだけになるのです。それをもとに何もアウトプットしない。
──たしかに「あれをしなきゃ」「これをしなきゃ」「何のために」と考えて、常にそれに合わせて心も身体も調えようとしています。
玄侑:そして、目的があるということは、常に何かを待っているということでもあります。「客が来ないな」と待ちながら店番している状態は精神衛生上よくありません。何も待っていないということは、逆に言えばすべてを待っている状態です。
目標を据えて、それに近づこうとするから、それに対して意味があるものと意味がないものを分けて考えたくなる。でも、よく考えれば、みんな意味があって、みんな意味がない。
──ある大学に入るとか、ある仕事に就くとか、成功するとか、結婚するとか、自分はそれを手に入れたいと考えていたのに、現状の自分はそれを手に入れていなくて無念に感じている人は少なくないと思いますが、そんな風に考える必要もないのかもしれませんね。

玄侑:何かの鋳型というか、パターンにあらかじめ当てはめているから、それに対する評価でがっかりしたり絶望したりするのです。学校でも会社でも目標を持つことを要求されますが、持ったふりぐらいしておけばいいのではないでしょうか。そうした目標は仮のもの、ぐらいに考えておいたほうがいい。
「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」という松尾芭蕉の有名な句がありますが、目標に向かって歩んでいる人は、垣根の下のなずなをよく見てみようとはなかなか思わないものです。しかしよく見たら、薄紫の神秘的で美しい花だったという発見をする。
そういう発見はあちこちに満ちているはずなので、「こんなはずじゃなかった」なんて思っている暇がないぐらい、世界は面白いものだらけだと思います。
玄侑 宗久(げんゆう・そうきゅう)
福聚寺住職・作家
1956(昭和31)年、福島県三春町生まれ。安積高校卒業後、慶應義塾大学文学部中国文学科卒業。さまざまな職業を経験した後、京都の天龍寺専門道場に入門。現在は臨済宗妙心寺派、福聚寺住職。2001年、「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞。著書多数。
長野光(ながの・ひかる)
ビデオジャーナリスト
高校卒業後に渡米、米ラトガーズ大学卒業(専攻は美術)。芸術家のアシスタント、テレビ番組制作会社、日経BPニューヨーク支局記者、市場調査会社などを経て独立。JBpressの動画シリーズ「Straight Talk」リポーター。YouTubeチャンネル「著者が語る」を運営し、本の著者にインタビューしている。
