「仏教的にいえば、心はすべて出来心」
──この部分を読んだときに、「個は全体と切り離して考えることができず、全体が常に変化しているのだから、その影響を受けて個も常に変化している。それゆえに、個を議論してもしょうがない」という意味だと思いました。
玄侑:そのような側面もあります。仏教的にいえば、心はすべて出来心です。環境や状況に左右されて、常に新たに心が生まれる。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、弟子の唯円(ゆいえん)に、「お前は決して人を殺さないか」と尋ね、「殺しません」と答えた唯円に、「そんなことはない」「状況が状況ならばお前だって人を殺すはずだ」と言いました。状況次第で人はとんでもないこともやらかす。ですから、状況を整えることが大切です。
一方で、こいつはこういう奴なのだと烙印を押して、GPSを取り付けて監視しようという考え方には東洋を感じません。
犯罪者にGPSを取り付けるという発想は欧米からの輸入品です。日本の文化の大元は輸入品ばかりですが、取り入れる際には自分たちに合った形にアレンジしている。アレンジ抜きで直輸入したものには抵抗反応が起きるのです。
──問題を作り出している背景から考えていかなければならないということですね。
玄侑:そういう意味では、核家族化あたりが1つの大きな曲がり角だったと思います。かつては「家」という形で守られていたものが少なからずありましたが、家族との関係をわずらわしいものだと考えるようになりました。
人の人生は網の目のようにつながっていますが、それを苦しいと考えたのでしょうね。苦しい網の目をどんどん取り除いていった結果、もしかしたらセーフティネットまで失ってしまったのではないか。現代は、そういうことに少しずつ気づいてきているのかもしれません。
──物事の発生や結果の原因を1つに絞り込むことを「単因論」と呼び、この考え方を否定されています。ただ、原因を特定しないと、ものを考えたり分析したりすることは難しくなるようにも思います。「単因論」に陥らずに思考することは可能でしょうか?
玄侑:物事が発生した理由を、われわれがすべて網羅的に理解することはできません。だから「あいつのせいだ」と理由を1つに絞って決めつけたくなる。でも、お釈迦様はそのように物事の発生要因を限定して言い切ることを嫌がりました。
とはいえ、単因論も方便としては有効で、問題が顕著な部分を変えれば徐々に全体が変わるということもある。ですから、それが唯一の原因ではないと知りつつ、そこを変えてみることにも意味はあると思います。