来日後、被差別部落を調査した八雲の意図

大塚:当然ですが、八雲の中に科学主義的な自然主義の感覚があったのだと思います。視力は弱かったため、拡大鏡とコンパクトな望遠鏡で細部を観察していました。八雲は文学的潮流としての自然主義に対しては必ずしも肯定的ではありませんでしたが、科学は信奉していました。

 明治期の文学は科学が前提です。それは観察することであり、正確に描写することです。彼は死刑や殺人の死体を克明に観察する文章を残し、その結果として、人々の猟奇的な関心にこたえていったのです。

──八雲は、なぜ最終的に日本に移り住んだのでしょうか?

大塚:天文学者であると同時にアジア研究者でもあったパーシヴァル・ローウェルの『極東の魂』という本を読んで彼は日本に関心を持ちました。そこで、彼は出版社に日本に行く費用を出してほしいと頼みます。提示された条件はあまり良くありませんでしたが、それを受け入れた八雲は日本へやってきました。

 ところが、日本に着いてから出版社とトラブルを起こして契約を破棄されてしまいました。そこで、自活するために職を探したわけです。帰るつもりで来て、結局帰れなくなったのです。

 話は前後しますが、新聞記者時代を経て、八雲には民俗学的な方向への好奇心も高まっていました。彼は、シンシナティでアフリカ系の女性と結婚し(後に離婚した)、そのことが理由で最初の新聞社を解雇されています。彼がその女性に惹かれた一つの理由は、彼女が一種の霊媒だったからであり、フォークテイルの語り部だったからです。

 彼は日本に来る前に、シンシナティから西インド諸島に移り住んでいますが、西インド諸島の文化圏の中で、アフリカ系の奴隷たちの民俗文化に触れていきました。民俗社会で構成された西インド諸島に行ってさらにそうした文化への関心は刺激されます。

 そのような好奇心の先に、さらに未知の地で、しかも出版社や読者にアピールできる土地はどこなのかと考えたときに、ローウェルの本を読んで感銘を受けた日本に行くことを決めたのです。日本に来た八雲は被差別部落を調査し、そこの民謡なども収集しています。

 八雲は、柳田國男より早く被差別部落に民俗学的関心を寄せていました。八雲を被差別部落に案内したことは当時批判もあったようです。こうしたことからも分かるように、八雲の関心は一貫しています。彼の関心の一つは、都市空間でマイノリティとして排除されていった人々の民俗文化なのです。