妖怪研究者ではなく民俗学者だった八雲

──改めて、大塚さんから見て小泉八雲とはどのような人物ですか?

大塚:八雲は広い意味での民俗学者であり、アメリカ時代の彼の発言からはその自負も窺えます。ちょうど彼が活動していた時代は、フォークロア(民俗学)が文学から分離していく時代でした。ロマン主義文学の影響で神話、伝説、昔話への関心が高まる中でグリム童話などが生まれました。

──先ほど柳田國男の名前が出ましたが、八雲から柳田國男の『遠野物語』まで、文学、民俗学、スピリチュアリズムは未分化であったと書かれています。

大塚:グリム兄弟は民間説話を集めて『グリム童話集』を編集しましたが、それはロマン主義文学の実践であり、民俗学でもありました。そういったヨーロッパにおけるさまざまな文脈や歴史の末にできた文学思潮が、その経緯をすっ飛ばして当時の日本に入ってきました。

 民俗学はまだ文学の一部であり、スピリチュアリズムは科学の一部でした。疑似科学のようなものの一部として霊や魂が語られていたのです。日本の文学者たちが参照した文学者で民俗学者のアンドルー・ラングなどは、まさにそうしたボーダレスなあり方の代表格です。

 八雲が来日した時期は、近代化の中で科学主義が台頭し、やがて日露戦争に直面して大量の死者が身近に感じられた時代です。近代合理主義の限界を感じて「死とは何だろう」「人は死んだらどこへ行くのだろう」という疑問を持ちながら、怪談や幽霊ブームが復興する時代の流れもありました。

 心霊現象を扱うのはスピリチュアリズム、フェアリーが出てくる民話は民俗学、両者は本来異なるアプローチの対象ですが、そうした分類や定義の理解を持たないまま日本の文学者たちは一気に受け止めたのです。

──ほぼ同時代に、高名な民俗学者の柳田國男がいますが、八雲が柳田と接触した可能性についても書かれていました。

大塚:2人がそれぞれ早稲田大学で教えていた時に(柳田國男は1901年から3年間早稲田大学で講師を務めている)、大学の講師室ですれ違っていた可能性を指摘する研究者がいます。彼らが具体的に会ったかどうかは分かりません。

 一方で、八雲の死後に、柳田が八雲について書いた文章がいくつかあります。大正の終わりから昭和初期に八雲の全集が出ています。それを読んでいないと書けないことが、後の柳田の仮説の中にいくつか見られるので、柳田は全集には目を通していたと思います。

 重要なのは、2人は同じ時代の世紀末の同じ気配の中でものを書いていた人たちで、それは柳田にとってはキャリアの始まりで、八雲にとっては晩年でした。