河合氏のペアは、186組目としてゴール。審査の結果、世界記録が認められた。

 ギネス達成後、最初のランナーとして出場した山下理事長に太陽の家や障がいのある人を取り巻く60年の変化などついて話を聞いた。

製造業から頭脳労働の分野まで雇用が広がる

太陽の家・山下達夫理事長

——60年の歴史の中で、ギネス世界記録達成を目指した取り組みは初めてですね。

山下:(「パラリンピックの父」で太陽の家を設立した)中村博士の銅像の前を走ったときは、何というか、感動じゃないんだけど、ちょっとうるっときて、胸が熱くなるものがありましたね。地域の方とともに60周年をお祝いしたいなという思いがずっとありました。それが今日を含めて叶ったと思っています。

中村裕博士の銅像の前を走るリレーの参加者

——太陽の家は、来年10月に開催される愛知・名古屋アジアパラ競技大会の前身の大会だった、極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会「フェスピック」の事務局を置いた時期もあるなど、障がいのある人のスポーツの普及にも取り組んできました。この60年間で障がいのある人のスポーツは、どのように変化してきたと感じていますか。

山下:60年前はスポーツの大会に対して「障がいのある人を見世物にするのか」と言われた時代です。リハビリで始まったスポーツは、障がいのある人が楽しめるスポーツに変わっていったものの、マスコミも福祉の立場で報道していました。それが、今では選手はパラアスリートとなって、スポンサーがつくまでになっています。こんなに変わるとは全く思っていませんでした。

 太陽の家では1972年以降、オムロン、ソニー、ホンダなど日本を代表する大企業と提携して共同出資会社を作り、障がいのある人を雇用してきた。
 5代目理事長の山下氏もそのひとりだ。1959年に山口県下関市で生まれた山下氏は、ポリオの後遺症によって幼児の時から四肢まひの障がいがあり、1977年に訓練生として太陽の家に入所した。1984年2月に営業を開始した三菱商事太陽の最初の社員となり、社長を務めた。4代目までの理事長は医師だったので、社員出身としては初めて理事長に就任した。

看板には共同出資会社や協力企業の名前が並ぶ