自らペンをとって
朝日が第一報を書いた時点で、告発者・熊谷独氏は、すでにソ連から帰国し、会社も辞めていました。
彼が都内在住と知った私は、自宅を訪問しました。手記を取るのが目的です。この時点で、熊谷氏に関して新聞や週刊誌が虚実ないまぜの記事を数多く出しており、熊谷氏はすっかりマスコミ不信の状態だったようです。
それでも自宅で応対してくれた熊谷氏は、自身で手記を書いてくれないかという私の申し出を即座に了承しました。ただ、「編集部からの質問は聞くけれど執筆は自分で」という条件でした。この手の手記の多くは、編集者がインタビューして下書きを作り、そこに本人が手を入れることが多いのです。普通の会社員が一字一句、自分で書くという条件を突き付けてきたことに、私は驚きました。
しかし、それから10日ほどして届いた原稿用紙数十枚におよぶ手記には、告発の顛末と、ココム違反により西側の相対的な軍事的優位が脅かされている現実が、見事な筆致で詳細に綴られていました。
この手記は文藝春秋の87年8月号と9月号に掲載されました。熊谷氏自身の手で、ココム違反事件の詳細、告発の動機などが書かれた初めての文章です。記事の反響はすさまじく、また日本国内ばかりか世界中のメディアがこぞって引用して報じました。
後に熊谷独氏の手記は加筆され『モスクワよ、さらば ココム違反事件の背景』(文藝春秋)として刊行された
文春には米国大使館(おそらく実質的にはCIA)から協力要請がありました。熊谷氏から話が聞きたいというのです。熊谷氏に連絡すると、協力を承諾してくれたので、米国側がセッティングしたインタビュー場所で長時間にわたり事情聴取に応じてくれました。
また文春には外国の記者からも次々にインタビューの申し込みがありました。当時は携帯電話もメールもない時代ですので、文春が熊谷氏の窓口のようになったのです。そのたびに自分は秘書役として同席しました。