長らく雑誌の世界で内部告発に踏み切った人たちと接してきた経験から言えることは、どんな内部告発にも、ある程度は本人なりの目論見があるということです。純粋な正義感や公憤だけではない場合がほとんどと言ってもいいかもしれません。

 しかし、だからこそ、本人の目論見より、告発の内容のほうを重視し、不正の追及や有意義な改革につなげていくべきなのです。

「内部告発」を握りつぶしたお陰で多くの兵士が犠牲に

 余談になりますが、実はココム事件で降格の憂き目に遭った瀬島龍三氏に関して、私は当時、作家の保阪正康さんとともに彼の人生を追いかけるノンフィクションの取材をしていました。その成果は後に『瀬島龍三 参謀の昭和史』(保阪正康著)としてまとめられています。

 瀬島氏は戦後、大本営の名参謀であったという「神話」を武器に政財界に影響力を有していましたが、その人生は疑惑にまみれていました。私と保阪さんのチームは長期にわたる大々的な取材をして、彼の人生の虚飾を一つひとつ剥がす仕事をしていました。

瀬島龍三氏=1984年5月撮影(写真:共同通信社)

 当時掴んだ情報のひとつが、まさに「内部告発」の握り潰し事件でした。

 1944年(昭和19年)10月、台湾沖で勃発した航空戦で、日本軍の航空部隊が米空母部隊を全滅させるほどの大戦果をあげているとの大本営発表が連日なされて、日本中が沸いていました。しかし、その戦果に疑問をもった人物がいました。陸軍の情報参謀である堀栄三です。

 当時、フィリピンへの出張を命じられていた彼は、九州の陸軍航空基地である新田原飛行場に向かいました。しかし、天候も悪く、マニラ行きの輸送機はしばらく飛べそうになかったそうです。そこで彼は、台湾沖航空戦の本拠地である海軍航空隊の鹿屋飛行場に足を伸ばし、戦闘から帰還したパイロットらから聞き取りした内容を詳細に分析しました。その結果、大本営への報告は完全な誇大報告であると見抜き、その旨を大本営の情報部長あてに暗号電報で伝えたのです。これも「内部告発」の一形態と言えます。

 しかし、その電報はその後の作戦に生かされませんでした。というより途中で握りつぶされたのです。そのため海軍の大戦果の報告を真に受けた陸軍中枢は、当初のルソン島決戦の方針をひっくり返し、「敗走する米軍を殲滅すべきである」としてレイテ島に上陸してくる米軍を撃滅すべく、陸軍の精鋭部隊を続々と同島に投入しました。

 ところが、実際にはさしたる被害を受けていなかった米軍は大艦隊を率いてレイテ島に上陸。輸送船を次々と撃沈された日本軍は、投入された8万4000人の兵士のうち8万人が戦死するという無残な結果となりました。堀氏の暗号電報が握りつぶされていなければ、違った結果になっていた可能性があります。

 保阪氏は、この堀参謀の電報を握りつぶしたのは瀬島氏ではないかと書いています(取材でそう証言した人が複数いたからです)。内部告発を握り潰して、多数の軍人を死なせた人間が、四十数年後に、別の内部告発によって世間から指弾される存在になったというのも何かの因果でしょうか。