その結果、熊谷氏も外為法違反で書類送検(その後、起訴猶予)。東芝機械の幹部数人が外為法違反で有罪判決を受けました。
さらに東芝本社の社長、会長も辞任。またこの事件のさなか、伊藤忠では瀬島龍三特別顧問がただの顧問に左遷されました。瀬島氏左遷の理由は明らかになっていませんが、瀬島氏がソ連に抑留されていた時代にソ連の協力者であったという疑惑が、この決定に大きく関わったとも言われています。
ソ連崩壊の序章
これは、私が経験した内部告発のなかでも、相当大きな事件でしたが、今、振り返ると、東西冷戦のなかで熊谷氏の告発は大きな意味を持っていたことが分かります。
熊谷氏の告発を機に、日本では東芝機械以外でもココム違反で摘発される企業が相次ぎました。また東芝機械が国際社会からも大々的に叩かれているのを見て、他国の企業のソ連との取引にも厳しい目が向けられるようになりました。
熊谷氏の告発と時を同じくするように、東西の軍事バランスも変化しだしました。
事件の1年後1988年11月、まずソ連邦の一員だったエストニアが国家主権を宣言。ともにバルト三国と呼ばれるリトアニア、ラトビアも続々と独立を宣言。結局、1991年にソ連邦は完全に崩壊しました。
ココム違反の厳罰化によって西側技術を盗めなくなったソ連は、軍備を独自開発せざるを得なくなったことで軍事費が増大、その負担に耐えきれなくなったのが崩壊の一因と言われています。
いや、ココム事件告発の前に、もはや経済的に軍備拡大競争に耐えられる力は消えつつありました。最後の一押しを、一人の日本人ビジネスマンが加えたと私は見ています。それほど国際社会に大きなインパクトを与えた告発でした。
もともとの告発の動機は、「ソ連の軍事力増強につながる技術を流出させたことへの後悔から」とか、ましてや「ソ連を崩壊させるために」ということではありませんでした。もしかすると一番大きな動機は、さきほど紹介した、個人的な事情によるものだったのかも知れません。
しかし、だからといって告発の異議が薄れたり揺らいだりすることはありません。告発で明らかにされた事実関係の確認を怠れば、世界が変わる機会を失うことになるのです。