庶民からも愛された皇后の模範、馬皇后(孝慈高皇后)。『明代帝后半身像(一)孝慈 高皇后』(作者不詳)、明代、故宮博物院(台北)
小都市並みの規模を持つ巨大な密室、後宮。イスラム文化圏のハレムなどと違い、中国的な後宮は、中国の歴代王朝にしか存在しない。そして王朝の永続のために、その制度は改良され続けた。後宮を舞台としたアニメ『薬屋のひとりごと』が人気を博すなど、さまざまな作品でも描かれてきた。3000年以上も存続した後宮は、中華帝国の本質を映し出す国家システムだ。中国史に詳しい明治大学の加藤徹教授は、新著『後宮 宋から清末まで』で、その後宮を軸にした中国史に迫った。
(*)本稿は『後宮 宋から清末まで』(加藤徹著、角川新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
明王朝の開祖は貧農出身だった
歴代王朝のなかでも、明ほど初代の遺志が最後まで貫徹された王朝はまれである。
初代の太祖洪武帝は「引き締め」の達人だった。ホームレス同然の下層農民から身を起こして皇帝となった彼は、権力をにぎると、臣下や人民に対して猛烈な引き締め政策を行った。のみならず、自分の死後もその引き締め政策が維持されることを構想した。
中国の歴代皇帝のうち、農民出身者は前漢の高祖劉邦(りゅう ほう)と、明の太祖朱元璋(しゅ げんしょう)の2人だけである。だが、この2人は対照的だった。
劉邦は無学で豪放磊落な性格で、細かいことは臣下に任せた。また彼の実家はそれなりの農家で、劉邦は若いころ、田舎の道の駅の駅長兼保安官のような顔役をやっていた。
劉邦が若いころに正妻とした呂后(りょこう)は、地元の素封家の令嬢で、出自は夫より上だ。夫の死後は政治を牛耳り、外戚の呂氏が前漢の皇位を乗っ取る寸前までいった。
洪武帝こと朱元璋は違う。彼は有能で、残酷で、自分ひとりで何でもできた。彼は自分以外の誰も信じなかった。いや、この世でたった一人だけ、彼が信頼した人物がいた。苦労をともにした古女房の馬皇后である。
賢い皇后の支えで低い身分から王になった明の太祖・朱元璋(写真:akg-images/アフロ)
明朝一代の後宮の性格を知るためには、朱元璋と妻の人生を知る必要がある。

