疑り深い絶対君主をたしなめた糟糠の妻

 洪武帝は激しい性格だった。自分が決めた政策を批判されると激怒し、功臣も罪を犯せば容赦せず死刑にした。馬皇后は、そんな夫をたしなめ、優しい政治を行うよういさめた。

 絶対君主である洪武帝も、糟糠(そうこう)の妻である馬皇后だけには頭があがらない。彼女のおかげで洪武帝に殺されずに済んだ人間は多い。

 馬皇后は正式に皇后となったあとも贅沢をせず、質素倹約の生活を送り、勉強を怠らなかった。夫の側室に子供ができると、全く嫉妬せず、身近に引き取って身内同然に仲良く暮らした。

 一方、自分の身内を甘やかすことはしなかった。あるとき洪武帝は、馬皇后の親戚の者を役人として取り立てようとしたが、馬皇后は「絶対にだめです。理由もないのに外戚に爵禄を与えるのは、法に反しますよ」と断った。唐の楊貴妃などとは大違いである。

 ただし、馬皇后は冷たい人間ではない。彼女は、早くに亡くなった自分の両親の思い出を口にするたびに、まるで昨日のことのように悲しみ、涙を流すのが常だった。

庶民からも愛された“大脚”の皇后

 洪武帝が即位して15年目の1382年、馬皇后は病気になった。群臣は、病状快癒の国家的な祈禱を行い、また診療のため天下の名医を招くことを請願したが、馬皇后は夫に言った。

「死ぬも生きるも運命です。加持祈禱なんていりません。国家予算の無駄遣いですわ」

 洪武帝が、天下一の名医を招くから頑張れ、と言うと彼女は断った。

「もしお医者に診てもらって、それでも私の病気が治らなかったら、あなたのことですから、きっとその医者を死刑にするでしょう。そんなことは、しのびないです」

 皇后は危篤になった。洪武帝が遺言を聞くと馬皇后は述べた。

「願わくば陛下が、天下の賢者を求めて諫言に耳を傾け、終わりを慎むこと始めの如くされんことを(最後まで初心を忘れず緊張感を持続すること)。子孫がみな賢く、臣民が自分が活躍できる所を得られますように。私の願いはそれだけです」

 こうして馬皇后は亡くなった。51歳。洪武帝は慟哭し、死ぬまで皇后を立てなかった。

 馬皇后の肖像画が残っている。皇后になったあとの肖像画なので実物より美化されているはずだが、それでも、絵のなかの彼女は丸顔で、目は小さく、鼻は団子鼻、肌も地黒で、美女とは言えない。また馬皇后は、当時の中国女性としては珍しく纏足(てんそく)もしていなかった。

 当時、中国の女性は、貧乏人も上流階級も纏足をするのがならわしで、纏足をしない女性は魅力がないとされた。例外的に、ごく貧しい家の女子は、幼時のころから労働力として家計を支えるため、纏足ができず、自然な足のまま育ったのだ。

 洪武帝は彼女に孝慈高皇后という立派な諡号を贈った。中国の庶民は今も敬愛の念をこめて彼女を「大脚馬皇后」(纏足をせず足が大きかった馬皇后)と呼ぶ。

後宮 宋から清末まで』(加藤徹著、角川新書)

【ほかの回を読む】
◎嫉妬から宮女の両手を切り落とし、重箱に入れて夫の光宗に届けた李皇后 南宋をつまずかせた悪女の所業
◎皇帝の性行為はすべて監視の下 中国・清の時代、宦官は皇帝の夜の相手や時間を細かく管理していた